矢原北村の堀ノ内
矢原北村の堀ノ内([小岩嶽城 周辺城郭])
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矢原北村の堀ノ内の口コミ情報
2024年07月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢原北村の堀ノ内は小岩嶽城の東南東約6.3km、万水川西岸(左岸)、標高約532mの平野部平場に立地した居館です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所が付近に無いので少し歩く事も視野に入れよう。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は平安時代中期の「和名類聚抄」にその名が見られる矢原郷に属し、同郷は後に荘園化して矢原庄となっている。領家は一定しないが伊勢神宮の御厨だった時期も度々であり、鎌倉時代には千七百町を数える比較的に大規模な荘園であった。又、時代不明なるも在地荘官には大伴氏流の細萱氏が推測されている。
中世には細萱氏を被官化させた仁科氏の支配を受けている。天正六年(西暦1578年)二月十日の「下諏訪秋宮造宮帳」には、「造宮仁科之領矢原之庄之内古厩、耳塚、細野、池田、正科、細萱、柏原…」とあり、矢原庄が武田氏時代においても「仁科之領」の内だった事が判る。
天正七年(西暦1579年)正月廿日、「下宮春宮造宮帳」、春宮御諸事の条には、秋宮拝殿三間を負担する、細かや、矢原、柏原、しろかねの代官に、細萱源助、矢原孫右衛門、柏原道中、しろかね中嶋の名が見え、矢原北村の堀ノ内は、こうした代官等にして在地土豪層の「堀ノ内」ではないかと推測されている。
居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。謂わゆる単郭の方形居館であり、東辺と西辺には堀形が残っている。但し、西辺の堀形は幅員があり、これを基準に考えると居館の敷地範囲は家屋2軒分でしかなく、どちらかの堀形は後世の改変の可能性が高いように思われる。ちなみに西辺の堀形はそのまま耕作地に変貌しており、その幅員は約12mだ。
居館地に建つ一般住宅に隣接する蔵には「堀」の屋号が掲げられていた。安曇野市内では家紋や屋号を掲げたお宅をよく見掛けるんだけど、あれこれ妄想しながらそれを見て廻るのもおいらの密かな楽しみだったりする。「堀さんじゃないんだよ、堀ノ内だから堀なんだよ…」等と勝手に納得、勝手に感動、一人で悦に入る…そっとしておいてやってくれ。