古厩城(正真院)
古厩城(正真院)([小岩嶽城 周辺城郭])
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古厩城(正真院)の口コミ情報
2025年08月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
古厩城(正真院)は小岩嶽城の北東約2.6km、中房川南岸(右岸)、穂高川西岸(右岸)、標高約584mの段丘台地上平場に立地する居館城です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている曹洞宗の寺院、梅林山「正真院」を目標に設定して下さい。城域はこの寺院を北東隅としている。車はお寺さんの駐車場に捨てればよい。
該地の古厩郷は、明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」に、「龐屋二間半 古厩郷所役、」とあるのが文書上の初見、同郷は安曇郡矢原庄を構成する一郷であった。
築城年代は不明、築城者は古厩氏です。同氏は、古厩郷を知行地とした仁科氏の分流、在名を取って古厩氏を称した。戦国時代初頭の仁科氏当主、弾正少弼盛国は、安曇郡一円に子弟を分家させたが、古厩郷に入部したのは三男の盛親だと伝わり、同名は安曇郡古厩郷小岩嶽内の曹洞宗の寺院、安養山青原寺の開基とされている。
小岩嶽城の口コミでも書いたが古厩氏の事跡には錯綜が見受けられるように思う。同氏は小岩嶽城の落城の際に一族、一党が撫で斬りにされたにも拘らず、時期不明なるも当の古厩氏は武田氏に出仕している。古厩盛親は別に小岩盛親(小岩嶽図書)とも伝わる事から、本来の古厩氏とは別に捉えるべき人物ではないだろうか。何れにせよ史料を欠きはっきりとさせる事は出来ないが…
生島足島神社文書中、「堀金盛弘等連署起請文」には、堀金平大夫盛広、渋田見源介政長、沢渡兵部助盛則、日岐盛次、穂高左京亮盛棟、等々力豊前守定厚、野口尾張守政親、関右近助政直、小宮山大蔵丞政知等と共に古厩平三盛隆の名が見られ、武田氏時代には仁科衆を構成する一氏として同名が当主であった事が判る。出典を探し出す事は出来なかったが、盛隆は前述した古厩(小岩)盛親の実兄らしく、或いは小岩嶽城の落城時には一族は二分していたとも考えられる。
明治初年の絵図によれば、東西九十間(約163.6m)、南北六十間(約109.1m)、堀が残り、正真院の位置に主郭、西辺に沿う形で副郭があったとされ、主郭は六十間四方だったとも。
改変著しく旧態は見ないとはいえ城域の範囲は明確に判る。城郭遺構も殆ど消滅していると思われるが、正真院の境内の北西隅には土塁の残欠とも見て取れる土の高まりが、推定副郭の西側背後には堀形様の地形が確認出来る。城域の西辺、北辺に沿う農道は堀跡を踏襲しているのであろうか。何れにせよ探索が非常に難しいお城、主郭と副郭がどのように接続していたのかさえ判らない。現況は東から、寺院、田地、墓地の順に集約されている。
城域内には小さな厩舎が建っており、四頭程の小さな馬が飼育されている。古厩の郷名にぴったりだが、地名は千国大道(後の千国街道であり、通称は塩の道である。)沿いの駅家(「うまや」とも読む。)が置かれていた事に由来すると推測されており、同道の追分の地として古代からの交通の要衝であった。
※仁科氏の各種系図には問題が多い。ましてや分流の事ともなれば尚更である。
※正真院〜安曇郡大町の曹洞宗の寺院、神竜山大澤寺六世、山舜嶺宥和尚が天満沢の地に入り、村民の崇敬を受け桜沢寺を建立したが兵火により焼失、天正十六年(西暦1588年)、細萱内記(細萱氏は武田氏時代には仁科衆を構成した一氏、室町時代には穂高神社の大檀那を務めていた時期もある。)によって同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある古厩氏館の旧地(堀屋敷)に中興再建、江戸時代の初期に現在地へと移転した。結果論に過ぎないのかもしれないが寺地は古厩氏の城館跡を選んで移動している。