矢口氏居館(堀屋敷・筑前屋敷)
矢口氏居館(堀屋敷・筑前屋敷)([小岩嶽城 周辺城郭])
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矢口氏居館(堀屋敷・筑前屋敷)の口コミ情報
2025年02月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢口氏居館(堀屋敷・筑前屋敷)は小岩嶽城の北方約10.7km、乳川北岸(左岸)標高約644mの平野部平場に立地した居館です。古くは大和田郷を灌漑していた北和田堰は、該地の南方約0.6km、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある西山城の東麓直下、乳川の蛇行点から取水する。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。Googleマップだと該地の南東方に位置登録されている「西山公民館」が一応の目標にはなる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは矢口氏です。「信府統記」によれば、矢口筑前守は前述の西山城の城主である。城の主なのだから同氏は該地の西山を知行地としていたのであろう。
矢口氏は本姓、大伴氏であり、中世には安曇郡に割拠した他の同姓氏族(細萱氏、穂高氏等)と共に穂高神社の神職を務めていたようだ。大町市平の野口地区に残る伝承によれば、矢口氏は本来、野口氏であり、同市内、若一王子社の流鏑馬の的を奉納していた事から矢口に改めたとも。
矢口氏の文書上の初見は、室町時代に成立した、「大塔物語」、「信州大塔軍記」であり、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際、方田ヶ先石川に布陣した仁科弾正少弼盛房に属する一手の中に、矢口将監、野口掃部の名が見える。両書は史料としては研究の余地がある物とされているが、個人名に関しては概ねで信用が出来る筈だ。
「三宮穂高社御造宮定日記」中、明應十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、穂高社の造営に際して安曇郡の諸郷に諸役と負担を注した文書には、奉行人として清水石見守盛好と矢口備前守知光の名が見られ、同文書は両名の連署によって奉之されている。当時の穂高社の大檀那は細萱氏に替わって仁科氏となっていた。
生島足島神社文書中、「堀金平大夫盛広等連署起請文」には、仁科氏の一族、被官衆等多数が連署形式でその名を連ねているが、矢口氏の名は見られず、同族と考えられる野口尾張守政親の名が書かれるのみである。この事から武田氏時代には既に凋落していたとも考えられている。
天正十一年(西暦1583年)六月廿四日、麻(浅)野久右衛門宛、小笠原貞慶宛行状には、「自去年相稼之条、本領参貫八百文之所、為重恩、西山之内小宮分六貫文、野平之内拾貫文、合十九貫八百文之所出候、以此旨可抽忠節者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、浅野久右衛門に、該地の西山の内から小宮分六貫文等、合わせて十六貫文を新恩として宛行っている。「西山之内小宮」が何処になるのかは不明だが、矢口氏は既に該地を離れていたか、もしくは帰農して久しかったのかの何れかであろう。
居館の現況は…耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。遺構は完全消滅していると思われるが、該地の南側、別の一般住宅の敷地内に土塁様の地形が確認出来る(写真は無理…)。遺構かどうかは怪しいもんだけど探し出した方も挙動の怪しい不審者だわ…
追白…矢口氏の五輪塔が残るとされる松庵寺の旧跡の場所は判ったんだけど、墓地を探索しても五輪塔が一つも見当たらない。どなたかこの件に関して御存知の方がいらっしゃいましたら御教授、伝言方、何卒宜しくお願い致します。
※該地の北北西約1.0kmの位置には、「小海戸」、「道海戸」の大字が残っており、別の中世城館の存在を示唆している。「海戸」は即ち、「垣内」の転化であり、謂わゆる「堀内」と同義だ。
※写真①は要るのか知らんけど長野県道306号、有明大町線から撮影した近景っす。県道は筑摩郡から通じる仁科街道の内、最も古い道筋(推定経路)を概ねで踏襲している。