等々力氏館(内堀)

等々力氏館(内堀)([小岩嶽城  周辺城郭])

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等々力氏館(内堀)の口コミ情報

2025年09月04日 内記かずりヾ(・ε・。)


等々力氏館(内堀)は小岩嶽城の東南東約6.2km、烏川東岸(右岸)、穂高川南岸(右岸)、万水川西岸(左岸)、標高約532mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは等々力氏です。同氏については同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある等々力城、主水城も併せて参照して下さい。

等々力氏は古くからの仁科氏被官衆の一氏であり、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、仁科弾正少弼盛房麾下として「渡度呂木」が参陣している。

生島足島神社文書中、「堀金盛弘等連署起請文」には、堀金平大夫盛広、古厩平三盛隆、渋田見源介政長、沢渡兵部助盛則、日岐盛次、穂高左京亮盛棟、野口尾張守政親、関右近助政直、小宮山大蔵丞政知等と共に等々力豊前守定厚の名が見られ、武田氏時代には仁科衆を構成する一氏として同名が当主であった事が判る。

武田信玄の五男、仁科氏の家督を嗣いだ仁科五郎盛信に重用されたのが等々力次右衛門尉である。盛信から同名宛の書状が数多く残っており、他の仁科氏被官衆に盛信の意向を伝えて差配出来る一段上の立場にあったと考えられる。

天正五年(西暦1577年)九月五日、等々力次右衛門、細野甚四郎宛、仁科盛信書状には、「今度越州境、遠近敵城迄、為穏便遂案内、加之彼之城主之行、格法密見分条、数微細注進、無比類働感悦之至、尤掌握之所何如之哉、弥向後走舞、可抽忠儀者也、謹言、」とあり、仁科盛信は、越後境の敵城における城主の行動、格法を密かに見分しその詳細を注進して来た、等々力次右衛門、細野甚四郎の忠勤を褒している。

天正六年(西暦1577年)二月十二日、とと力次右衛門尉宛、仁科盛信書状には、「越國境迄、小谷筋荷物貮疋前無相違可通者也、仍如件、」とあり、仁科盛信は、等々力次右衛門尉に、貮疋の荷物までの小谷筋の無条件の通過を許している。

天正八年(西暦1580年)八月朔日、とと力次右衛門尉宛、仁科盛信書状には、「来札披見、仍不動山(越後国頚城郡)衆番替近日被仰付候間、弥御番普請、聊不可有油断之旨、可被申越候、随而、馬町毎年雖成下知候、町人侘言故無一着候、然則者、於今度者領中之馬并大町、真々部市之儀、此砌穂高へ被引可然候、猶替儀重而可被申越候、恐々謹言、」とあり、仁科盛信は、越後国頚城郡内の不動山城(アプリの登録城である。)に在番する等々力次右衛門尉に、不動山衆の番替を近日中に仰せ付けるので、いよいよ御番と普請を油断無きようする事を申し付け、併せて次右衛門尉に、町人が侘言を言って毎年の馬市の場所が決着しない事を知らせ、領中の馬、並びに大町、真々部の市を今度は穂高へ移すようにとも言っている。書状からは、次右衛門尉がアプリの登録城、越後の不動山城に城番として出張している事が判る他、盛信から領内の馬市に関する意思決定の報せを受け取る立場にあった事も判り、両者の親密な主従関係が窺える。

居館の現況は…畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。屋敷地である「内堀」の範囲は狭いがその周囲には外堀が巡らされていたのだろう、居館敷地範囲を明確にする事は不可能とはいえ、内堀の北側には今も「蔵屋敷」の小名が残っているらしい。現在、城郭遺構は完全消滅しているが、ごく最近まで僅かながらの内堀の堀形が残っていたそうだ。見るべきものは何も無い。周囲の眼が気になるしとっとと帰ろう。

該地の北方約0.2kmの位置には安曇野市の有形文化財、等々力家住宅が立地している。等々力氏は近世には郷士として存続し後には帰農、松本藩保高組の大庄屋を務めて穂高の開発に尽力、江戸時代の初期には柏原、重柳等の近隣諸村に分家を輩出する等して繁栄した。周辺は、鮭、鴨の狩猟場でもあり、当地に建つ同家住宅は藩主の野行の際の本陣ともなっていた。敷地内に残る、須弥山石組の庭園、書院と長屋門は江戸時代中期のものと伝わり一見の価値がある。訪ねるのならこちらの方をどうぞ…

※等々力家住宅〜同じ小岩嶽城のリア攻めマップにスポット登録だけしておく。

※写真①、②、砂利が敷き詰められている箇所が堀跡っす。平らげられてしまったけど今となっては確かに邪魔でしかない。

※写真⑧は付近にある分家の一家の蔵に掲げられた「等々力」の屋号表札を撮影したものっす。現在でも穂高の名家、知らない者はいない。在地で氏族として存続する事を至上命題とした等々力氏は最大級の成功を収めた訳だ。ちなみに屋号表札、かっちょええなぁ…おいらも「かずり屋敷」とか掲げてみてぇ。

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