赤沢氏館
赤沢氏館([稲倉城 周辺城郭])
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赤沢氏館の口コミ情報
2022年02月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
赤沢氏館は稲倉城の南西約3.8km、標高約655mの山間部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている松本市立本郷小学校を目標に設定して下さい。小学校のグラウンド周辺、そこが正に居館の存した場所です。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは赤沢氏です。居館の存した浅間郷は赤沢氏の所領で、甲斐源氏小笠原氏の初代長清の二男、清経が伊豆国田方郡赤沢郷(今も静岡県伊東市に地名が残る。)を本貫地として赤沢氏を称したのが始まりです。初代清経は信濃国埴科郡埴生に移り、後の当主赤沢忠興は中先代の乱において小笠原貞宗に従い北条方の残党鎮圧に功を挙げ信濃国筑摩郡浅間郷、更級郡四宮庄塩崎を与えられ(北条氏遺領を分配された事になる。)塩崎に本拠を置きました。大塔合戦では守護方となり敗北、小笠原氏の内紛に際しては府中の小笠原持長を支持して漆田原の戦いに勝利しますが、当主赤沢対馬守教経は討死しています。
教経の跡を継いだ朝経(悪太郎)は嫡男政経に家督を譲って上洛、室町幕府管領細川政元に従い畿内で暴れまくった事で有名ですね。通称から解るようにやんちゃしてたようですが、冒険を求めて一家を捨てた放蕩親父とも言えるでしょう。嫌いじゃないです。
戦国時代、赤沢氏は二分します。すなわち武田氏に敗れて諸国を流浪した信濃守護小笠原長時に従った者、そして武田氏に従った者です。前者は時の当主智経が三好長慶を頼った長時に従い上洛、北白川の戦いで討死(長時が客将扱いでありながらの討死、長時は先陣だったのかしらん。)、その後は当主貞経が相馬氏に身を寄せ、最終的には徳川家康に五百俵で召し出されて小笠原姓に復し、小笠原流弓馬術礼法を今の世に伝えています。一方、後者の浅間赤沢氏は武田氏被官時代には軍役四十騎(少なくはない。)、天正壬午の乱の際には深志(松本)を回復した小笠原貞慶に従いますが、後に上杉氏との内通を疑われて誅されました。
居館の現況は小学校のグラウンドです。居館の正確な位置は特定されていませんが、特定されても困っちゃうよ…て感じですかね。リア攻め時間は30秒位ですが、これ書くのに1時間30分位掛かりました。阿保なんでしょか。ハイパーマニア向け。訪ねる必要無し。