伊深館
伊深館([稲倉城 周辺城郭])
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伊深館の口コミ情報
2022年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
伊深館は稲倉城の西南約1.9km、標高約732mの山間平野部緩斜面上平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北東側の(有)エム創建を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方となると判断難しい…信府統記、長野県町村誌、東筑摩郡誌に記述がありますが、諸説あって何れもはっきりしません。やはり伊深城主、後庁氏の居館であったとする説が一番しっくりするような…信府統記、長野県町村誌には小笠原氏の被官、後庁大内蔵の名が居館の主として伝わっています。この後庁氏についてもはっきりしない(私家本があるらしいが…)のですが、確実なのは洗馬の三村氏当主、民部丞、駿河守長親(武田晴信によって甲府一蓮寺にて誅殺される。)の弟、久親が後嗣として後庁氏に入り、長親の嫡男、勘兵衛尉長行が久親の後嗣として後庁氏の家督を相続しています。武田氏の滅亡後は府中回復を目論む小笠原貞慶が溝口新介を使わし、天正十年(西暦1582年)六月十二日、後庁の名義と洗馬堀廻三千貫を宛てがう旨の書状を、六月十四日には更に奉行職に加えるとの口上が述べられその忠節と働きを促しています(前回の旧領回復失敗を経験に貞慶君は必死に願い倒しまくるのだ。)。
居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地となっています。同じ稲倉城のリア攻めマップにある伊深城を詰城とする居館で、伊深城東麓直下の最上段に立地します。居館の位置は比定地で遺構は何も残っていませんが、一般住宅の敷地からは武田菱の龍印が見付かったそうです。
天文十九年(西暦1550年)七月十五日、武田勢は「イヌイの城(埴原城か?)」を攻め取り勝鬨執行、林大城、深志城、岡田城、桐原城、山家城は自落しますが、この岡田城が伊深城だと比定されています。たぶん伊深館も同様であった事でしょう。マニア向け。ただ詰城の伊深城が素敵過ぎるのでこっちだけはお願いしたいところです。