田沢城(光小城)
田沢城(光小城)([平瀬城 周辺城郭])
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田沢城(光小城)の口コミ情報
2022年12月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
田沢城(光小城)は平瀬城の北西約3.0km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山から南西へ伸びる尾根上、標高約725mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の国道19号線からの比高は170m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きの田沢城跡登城口も位置登録されているのでどちらでも。
築城年代は不明、築城者は田沢氏です。田沢氏は海野氏の一族で、海野長氏(幸継)の四男、幸国が地名を取って田沢四郎を称している。田沢氏は事跡に乏しく、大塔物語に篠ノ井山王堂に三百余騎を持って布陣した海野宮内少輔幸義の麾下にその名が見られるぐらい。が、伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「小立野分」には「田澤紳助殿 熨斗五十本、帯ちゃ十袋、同わかさ殿 茶五たい 同所平林殿 ちゃ三つ」とあり、田沢から明科北方の小立野に移っている事が判る。紳助には在地土豪の領主クラスが久家から頂けるレベルの土産が配られているが、少なくとも生島足島神社文書起請文中にその名は見られない。
実は3回目の訪問、主郭部は縄張図を追えない激藪+間伐木の放置状態で非常に悩ましい…毎回何かを期待して登るのだけど酷くなってる事は間違い無い。主郭北側山側背後の三重堀切+連続竪堀に代表されるようにポテンシャルは極めて高いんす。ただ見せ方を全く理解していないので此方からの歩み寄りが必要になる。ちなみに夏場は全然だし冬場でも大して変わらないので、どうぞ大目には見てやって下さいまし。
別称にある光小城は同じ平瀬城のリア攻めマップにある光城(大城・仁場城)の支城を意味する訳だが、築城主体は本城とは別物になる。元禄十一年(西暦1698年)の「国絵図書上」には光の仁場城をもって田沢城とし、享保九年(西暦1724年)の信府統記もこれを踏襲している。塔原氏、田沢氏、光氏の当時の関係性も含めて再考が必要だが史料等無くはっきりしない。又、武田氏時代に勢力を失ったと推測される田沢氏だけど、それより以前、小笠原氏が守護権力を強化していく過程において既に凋落していたようにも思える。田沢の地は小笠原氏支配領域との境目に当たり、交通の要衝である事は今も変わりが無い。
※堀底道の登城路が付いているが往時のものかは不明だ。