光城(大城・仁場城)
光城(大城・仁場城)([平瀬城 周辺城郭])
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光城(大城・仁場城)の口コミ情報
2025年05月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、GWも終わりアプリも桜とお城のコラボ写真が全国的に終焉を迎えて平常運転、ようやく本来の姿を取り戻した感じだ。おいらの城郭写真は全てが記録用、焦点がぼやけてしまう桜も紅葉も本来の目的から外れてしまうので必要無し。崖地をよじ登りながら自らが腰に貼ったサロンパスの香りを愛でるのが山城好きの本来の姿、そんな訳で長野県安曇野市の未登録城を再訪してみた。
光城(大城・仁場城)は平瀬城の北北西約3.6km、犀川東岸(右岸)、標高911.7mの光城山山頂部を中心に立地する要害です。西麓の国道19号からの比高は345m位でしょか。城山は登山客が通年で数多く訪れる比較的に名の知れたお山だ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。林道長峰線を使えば殆ど登らずに済む楽ちん城だ。但し、山城は徒歩で登ってなんぼのもん、おいらは西麓の登山道入口から毎回の如くフルで登っている。ちなみに「光城山森林公園」として整備されているんで行程に悩む事も無いしデカい駐車場も付いている。
築城年代は不明、築城者は光氏です。同氏の詳細は伝わらないが、滋野氏嫡流家海野氏の分流である。伝承によれば、戦国時代の初頭に海野幸元が小県郡から来住、在名を取って光氏を称して六郎を名乗り、後に要害として光城を築いたとされる。但し、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際には、篠ノ井山王堂に三百余騎を以て張陣した海野宮内小輔幸義の麾下に「比嘉留(ひかる)」の名が既に見られる。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「ひかるの分」には、「海野三河守殿 熨斗五十本 上之茶十袋…中略、ひかるやまと殿 茶十袋…後略」とあり、光大和(守)なる人物が武田氏時代にも当地にあった事が判る。但し、配られた土産の品目、量から推測すれば、この頃には在地土豪としての勢力を衰退させ、文頭に据えらた海野(塔原)三河守幸貞の寄子同心の地位にまで凋落していたようだ。
…なんじゃこりゃ…眼前には目を疑う様な光景が…登山道を埋め尽くす桜の嵐、聞いた話によればその数は約1500本にもなるんだそう。もはや写真撮影の邪魔どころの騒ぎじゃないわ…幼少期のワシントンを100人位召喚して鋭利な斧を各人に手渡しても全滅させるのに一体何日掛かる事やら…おまけに登山客の数が尋常じゃなくてひっきりなしにこれと行き交う始末、光城は県下の山城では大人気なんだろうか。信濃のお城の神の縄張図をフルコピして全員に手渡したかったけど、それぐらいは当然、みんな用意して来ているんだろうね。
桜の殆どは縄張図における通称1郭と登山道に集中している。山麓から見上げるその光景は「昇龍の桜」として特に有名なんだそう。リア攻めに不安がよぎるけど、今春、3回目の訪問にしてようやく城山にこんなにも桜がある事に気付かされたわ。たぶん探索に熱中してたんやろなぁ…一生懸命な人やさかい…
お城は高所の要害だったくせに現在は殆どが公園化しており、登山道の障壁でしかない堀系は削られたり不自然な土橋が設けられたり木橋が架けられたりして散々な目に遭っていたりもする。なんだけどねぇ…元々のポテンシャルはかなりのもの。そこかしこに山城としての隠し切れないプライドを探し出す事も十分に可能だ。埋まり気味とはいえ交錯する長大な竪堀なんかも確認出来るし、主郭部の形状なんかは大幅な改変のしようが無い部分であると信じたい。
城山は山麓と山頂との比高差がかなりのものなんだけど、桜(ソメイヨシノ)てデリケートな植物なのか、比高が10m位違うだけで咲き方が全く異なる。具体的に言えば山麓では満開でも山頂では硬い蕾のまま、全ての桜を満開で拝める事は奇跡に近い筈だ。お花に興味を持たないおいらには関係の無い話とはいえ、皆さんは来年に訪れる際の参考にでもするがいいさ。
※写真①、②は駐車場を撮影した物っす。
※写真③は登山道入口を撮影した物っす。
※写真④〜⑥は登山道を撮影した物っす。