真々部氏館
真々部氏館([平瀬城 周辺城郭])
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真々部氏館の口コミ情報
2022年08月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
真々部氏館(ままべしやかた)は平瀬城の南西約4.2km、標高約586mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地の一部はだるま寺の異名を持つ臨済宗妙心寺派の寺院、金龍寺の敷地と重複しているのでお寺さんの駐車場に車を捨てればいいさ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真々部氏です。同氏は仁科氏の有力な一族と推測され、武田氏時代の真々部尾張守盛幸は永禄四年(西暦1561年)、仁科氏当主、右衛門大夫盛政と共に上杉氏への逆心を疑われ甲斐で生害させられたそうです(…生島足島神社文書に残る仁科盛政起請文は永禄十年八月七日に提出されたものである事から矛盾が生じている。)。疑問なのが盛幸の子、尾張守真光でして、真光はびっくりする事に武田信玄の娘を妻に迎えているらしい…前述の金龍寺はこの真光の菩提寺でもあり、真光、その妻、その嫡男孫三郎の墓があるらしい(未見す。)のですが…在地の、立ち位置的には陪臣に当たる一土豪の縁組としてはちょと俄に信じ難くありません?もし事実とするなら仁科盛政等生害の事も含めて、永禄四年、仁科氏の後嗣となった武田五郎(盛信)の件の経緯に答えを求める事が出来るのかもしれません。真々部氏は天正八年(西暦1580年)八月十一日付、等々力次右衛門宛仁科盛信書状に「真々部同心被官同前之事」とあるそうで、仁科盛信の代に至っても引き続き仁科氏の被官であった事は確実でしょう。
居館の現況は空地、寺院の敷地、一般道路等となっています。居館は東西南北の小路を持つ町割りの中心に位置し、居館の敷地の西辺、大手脇には土塁の一部が残存しています。この土塁、標柱も立ち結構な高さを留めているのですが、玉石垣等で補強されていたりして逆に存在が判り難いです。
かつて真々部の地は市場が開かれ七寺八小路が置かれた安曇郡南部における経済の中心地でもありました。今にその面影を見る事は難しいけど、ひょっとしたら武田の姫様がお暮らしになられたかもしれない町割りを偲ぶのもよいかもしれません。