熊倉氏館
熊倉氏館([平瀬城 周辺城郭])
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熊倉氏館の口コミ情報
2025年09月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
熊倉氏館は平瀬城の西南西約0.8km、犀川西岸(左岸)、標高約563mの河岸段丘台地東縁上平場に立地した居館です。犀川氾濫原における段丘最上段、「宮下の台地」の南端部でもある。ちなみに熊倉の「熊」は「曲」や「隈」に通じ、犀川の屈曲点、もしくは犀川に面した台地の隅を表しているんだそう。
該地の北北東約0.4kmの犀川河畔には、千国道、後の千国街道の渡し場、熊倉の渡しが位置している。熊倉を選んで渡し場が設けられたのは、硬い岩盤層によって形成された宮下の台地が安定していた事と、比較的に緩慢な犀川の流れと浅い水深のために渡し舟の運行が容易な場所であった事に他ならない。ちなみに犀川を渡った後、眼前に聳える山稜がアプリの登録城、平瀬城である。
往古には、平安時代中期に編纂された「和名類聚抄」に載る、安曇郡高家郷に含まれる地域であったろう。現在の住所は安曇野市豊科高家である。後には安曇郡内住吉庄を構成する十八郷の内の一つとなった。
文明八年(西暦1476年)、「下諏方春秋両宮御造宮帳」には、「熊倉分 合籾二十俵壱斗 此代四貫百文 取手 同人(大輪越前守)」とあり、他の住吉庄の諸郷と共に下諏方春宮四之御柱の造宮の諸役を負担している。
明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」の大宮分には、「飯田、熊倉雨(両)条 白米一斗九升、手束麻十九把半、釘十九、銭十九文、十五日祝奉行 籾六斗五舛、白米六斗五合、」とあり、熊倉は飯田と共に大宮の造宮の諸役を負担している。
天正七年(西暦1579年)己卯正月廿日の「下宮春宮造宮帳」には、「熊倉分 正物 壱貫八百八十文 代官 丸山下野 同名出雲」とあり、武田氏時代の熊倉郷の代官に丸山下野と丸山出雲があった事が判る。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある「熊倉春日神社」の駐車場に捨てればよい。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは熊倉氏です。同氏は平瀬氏の一党と推測されているが、むしろ平瀬氏と同じく犬甘氏の一族ではなかったろうか。永享十二年(西暦1440年)の結城合戦における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十八番 永用(永田か。)殿 二木殿 竹田殿 熊蔵殿 西坂(西牧か。)殿」とある(並びからすると西牧氏の一党のように思えるのだが…)。
居館の現況は…一般住宅とその敷地等となり、館域の東側部分にはソーラーパネルが立ち並んでいる。改変著しく旧態は見ないが、城郭遺構として結構な高さを持つ土塁の残欠が確認出来る。
実は2回目の訪問、近くを通り掛かったんで再訪してみたけど、前回訪問時には建っていた、熊倉氏館跡を示す石板が跡形も無くなっている。家人が嫌ったのかな。どうしようもないので2年前の写真を掘り起こしてアップしておく。控え目ながら結構いい感じの石板なんで元の場所に戻しておいて欲しいなぁ…
※探索が辛い物件である。ちなみに該地には武田氏時代の代官、丸山氏と同姓の丸山さんがお住まいだ。
※熊倉の渡し〜口コミはしないので同じ平瀬城のリア攻めマップにスポット登録し写真だけ置いておく。ちなみに江戸時代には橋(熊倉橋)が架けられていた時期もあったが押し流される事も度々であったようで後には放棄されている。渡し舟の方は戦後も運行が続けられていた。
※熊倉の渡しを使えば熊倉氏館から平瀬城まで指呼の距離だが、現在は橋が周辺に無いため大変な遠回りを強いられる。
※写真には2年前の物が4枚含まれている。
※写真⑧が文中にある石板を撮影した物っす。今は無い。