唐鳥屋城(乱橋城)

唐鳥屋城(乱橋城)([虚空蔵山城  周辺城郭])

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唐鳥屋城(乱橋城)の口コミ情報

2025年12月26日 上総介赤備えヾ(・ε・。)


唐鳥屋城(乱橋城)は虚空蔵山城の北西約0.6km、標高1079mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。南西麓の虚空蔵山西登山口からの比高は250m位でしょか。該当山稜は虚空蔵山城の立地する虚空蔵山の隣峰ではあるが、深さのある鞍部を介しているために縦走にはそれなりの苦労が強いられる。

城地は古代官道の要衝、近世の北国脇往還(善光寺街道)の難所の一つ、立峠と尾根続きである。同峠は平安時代頃まで更級郡と筑摩郡の境目(後には筑摩郡の内である。)であり、戦国時代には戦いの舞台ともなった事がある。天正十五年(西暦1587年)、筑摩郡西条に拠る鬼熊氏が青柳氏を援けて小笠原勢を立峠において防ぐも敗れ、その帰路を塞がれて近侍と共に自害、滅亡した事が伝わっている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「唐鳥屋城跡入口」を目標に設定して下さい。判り難いが標柱が立っており、付近には車を捨てられる空地もある。此処から徒歩で登る比高は85m位だ。

築城年代は寛正年間(西暦1460年〜1466年)、築城者は海野氏の一族、藤澤帯刀と伝わるが確証を得られない。藤澤氏は、寛元二年(西暦1244年)、藤澤大道が城地の北東麓、筑摩郡乱橋(みだれはし)の「帯刀原(たいとうっぱら)」に居館したと伝わり、これは海野幸継の子等による海野氏の筑摩郡進出と時代を殆ど同じくしている。ちなみに乱橋の中世は一切が不明であり、確たる在地領主の存在すら知る事が出来ない。

「長野県町村誌」には、「立峠の山脈、村(本城村)の午未(南南西)にあり。東西十二間(約21.8m)、南北六間(約10.9m)、其礎跡等藪中に存し、地形人工になりたるもの炳然として在るあり。昔時應仁年間(西暦1467年〜1469年)、藤澤帯刀なるもの城きて據る所にして、天文年間(西暦1532年〜1555年)に至り、小笠原氏の兵を被りて亡ぶと云ふこと傅聞す。」とある。天文年間云々は前述した天正年間(西暦1573年〜1592年)の戦いの誤伝かと思われるが、鬼熊氏は立峠から連なるこの唐鳥屋城において小笠原勢を防いだのかもしれない。

海野幸継の二男、小次郎幸持は筑摩郡会田に入部し、在名を取って会田氏を称し、子孫はアプリの登録城、虚空蔵山城を築いたが、同城と唐鳥屋城とは谷中の花川原峠を挟んで指呼の距離にあり、藤澤氏が居した「だいとう屋敷」とはやや距離がある。戦国時代には虚空蔵山城砦群を構成する一城として、会田(岩下)氏の持分であったのかもしれない。

天正十年(西暦1582年)の岩下氏の滅亡後には、会田にも知行地を有していた青柳氏の持分であったろう。鬼熊氏が立峠に張陣したのもそれを裏付けているように思われる。何れにせよ、はっきりとした史料、伝承等を欠き、城主や城歴等を詳らかにする事が困難だ。

縄張は所々で岩盤層が露出する急峻な山尾根上に展開している。主郭はそう広くはない段付き、石積み付きの削平地、主郭からの北西尾根には竪土塁付きの壮大な段郭を設けている。他の城郭遺構としては要所に数条の堀切が穿たれ、その内の一部には竪堀としての延長が認められる。全体的には要害地形を活用する事に重点を置いた戦国時代以前の砦といった趣きがあり、前述した主郭と段郭以外には郭と思しき平坦地が見当たらない。この縄張には少し異質にも感じられる段郭は後の増築であろうか。後世の耕作の跡とも見て取れるのだが…

藤澤氏について色々と調べていたが、定説となっている海野氏の一族とする確証が探し出せない。藤澤氏が拠った乱橋とその周辺地域に藤澤の地名が見当たらない事も気に掛かる。個人的な推測に過ぎないのだが、同氏の出自等についてはかなり大胆な仮説を立てるまでに至っている。怒られそうだし、恥ずかしいので詳細は語らないが、小県郡に拠った諏訪社下社の大祝、金刺盛澄の舎弟とも云われる、手塚太郎光盛、もしくはその一族等の後裔だったのではないだろうか。

※乱橋〜永正年間(西暦1504年〜1521年)に佐久郡内大井法華堂領であった事が確実視されているが近世以前の史料が皆無に近い。ちなみに大井法華堂は天台修験職の先達家、信州最大の修験道勢力であった。

※確たる在地領主〜「本城村誌(新版)」では伝承等に一切触れる事なく、あった事を前提としながらもこの点については完全にスルーしている。寂しい限りだが市町村誌としての姿勢は正しい(伝承を事実としない。)と思う。

※手塚太郎光盛〜一般的には金刺盛澄の舎弟とされているが、各種系図等を見ると、手塚氏自体が数代前からの金刺氏の分流であった事が図示されている。もし舎弟であったと仮定するならば、金刺氏から手塚氏に養嗣子として入った事以外には説明が付かないと考える。

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