塔ノ原城(城山・長峯城)

塔ノ原城(城山・長峯城)([虚空蔵山城  周辺城郭])

虚空蔵山城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「塔ノ原城(城山・長峯城)」の地図・口コミがご覧頂けます。

「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。

塔ノ原城(城山・長峯城)の口コミ情報

2025年04月15日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、アプリも桜とお城のコラボ写真で盛り上がりを見せる中、波には乗るけど流れには乗らないおいらはストイックに積雪の山城を口コミしやす。このぽかぽかと暖かい季節にそぐわないかもしれないんだけど、極く最近の訪城なんでどうか許しておくれやす。

塔ノ原城(城山・長峯城)は虚空蔵山城の西南西約7.1km、犀川東岸(右岸)、会田川南岸(左岸)、標高933.4mの長峰山から北西へ伸びる尾根中段上、標高約755mの通称、城山山頂部を中心に立地する要害です。北西麓のJR明科駅からの比高は230m位でしょか。該地は府中から会田に至る谷筋の古道を扼する関門の地である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。大手筋から登ると悲惨な目に遭う山城だが、林道長峰線を使えば、同じく位置登録がある城山南側の「金玉池」…まで車が入る。此処で適当な場所に車を捨て、北側の未舗装林道を徒歩で横移動すれば城域の東端部に労せずして辿り着ける。

今回の再訪は3月の末…前述の林道はがっつりと冬季閉鎖…従って全ての行程を山麓から徒歩で登っている。この林道、道は緩やかなんだけどかなり巻いてから登るんで舗装されているとはいえ兎に角、だるい。下山ルートは別と決めていたので我慢出来たけど、そうでもなければ4月の通行解除を待った方が無難だ。

再訪した理由は城域の全てを廻り切れていない事とどうしても冬場に遺構を確認したかった事にある。前回の訪問は初秋、ポテンシャルが極めて高い山城とはいえ、城山は荒れている上に藪も酷くお目当ての遺構も諦めざるを得なかった。

築城年代は不明、築城者は塔原氏です。塔原の地(川手郷)は、滋野氏嫡流家海野氏の分流、塔原氏が拠った所で、源頼朝の信任厚い鎌倉幕府御家人、海野小太郎幸氏の子、小太郎幸継の三男、三郎幸次が家祖である。海野氏の家督を継いだ小太郎幸春以外の兄弟は全て(出家を除く。)筑摩郡の各所に入部しており、当時は海野氏の最盛期でもあった。

「高白斎記」、天文廿二年(西暦1553年)四月の条には、「三月十八日甲子、於曽源八郎深志へ越テ二度無歸府候、廿三日己巳、午未刻、向丑方御出馬、廿九日乙亥、深志ヲ御立、午刻苅屋原へ御着陣、晦日城ノ近邊被放火、四月小、朔日丁丑、二日戌午、午刻苅屋原ノ城被攻落、城主(太田)長門守生捕、酉刻ニ晴時塔原ノ城自落、三日己卯、會田虚空蔵山迄放火、苅屋原ノ敵城ヲ割、酉ノ刻向寅ノ方御鍬立、…」とあり、武田勢により苅屋原城が落城した事に伴い「塔原ノ城」が同日中に自落した事が判る。塔ノ原城はこの後の天文廿二年五月五日に破却され、以降、要害としての利用は無かったろう。

急峻な尾根筋に縄張が展開する。主郭は土塁付きで段が設けられ、用途は不明なるも南側谷側へ向けて桝形虎口様の窪地形が確認出来る。主郭の東側山側背後は堀系で細尾根が細かく刻まれ、特にこのお城のハイライトとなる5条の連続竪堀が末端部で集合する扇堀の壮大さは全国的にでも此処でしか見られない代物、集合部に立って上方を見渡せば誰でも感動する事間違い無し。

大胆さと繊細さが入り混じる主郭部とその北側谷側前面に設けられた帯郭状の段郭も見所の一つ。段郭は竪土塁によって連結され竪土塁中には堀切が穿たれていたりもする。余り例を見ない珍しい仕様だが、このお城には他にも築城者の個性みたいなものが多分に存在すると思う。

天正十一年(西暦1583年)癸未七月廿日、孫左近殿宛、小笠原貞慶宛行状には、「塔原於蔵人定納萬疋之所、出置候、直奉公之者共、何其可為寄子、以此皆、諸軍役、無如在、可勤者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、孫左近(不詳、一族か。)に、塔原の地を宛行い、直奉公の者を寄子とし、皆に諸軍役に励むよう求めている。武田氏によって廃城された筈の塔ノ原城にはこの時期の改修説が存在するのだが、こうした事実が漠然とした背景にあるからなんだろうか。

「信府統記」には、「…其後太田弥助ト云者居城(苅屋原城)セリ、是ハ武州太田道灌ノ一族ナリ、当国へ来リ、小笠原ニ属ス、大永三年(西暦1523年)癸未年ヨリ当城主(苅屋原城)トナリ、七百貫ヲ領シ、小笠原家一ノ大身ナリ、苅屋原ヨリ東ハ七嵐辺ノ村々保福寺マデ、西ハ川手ノ田沢村筋井川向フ鳥羽村迄都テ十六ヶ村領地セリ、又此辺ノ要害ハ皆弥助持ナリ、」とある。この記述を正しいものとするならば、太田弥助(長門守)は小笠原氏の被官となり、筑摩郡から小県郡に通ずる道筋の諸郷を知行地とし、この地域の差配を守護家から一手に委ねられていた事になる。塔原の地も当然これに含まれ、所領内の要害は全て弥助の持分ともされている。塔ノ原城に改修説を求めるのであれば、やはりこの時代が相応しいと個人的には思うのだが…

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore