安坂城(城山)
安坂城(城山)([麻績城 周辺城郭])
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安坂城(城山)の口コミ情報
2025年07月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
あぁ…突然だけど久しぶりにまともな山城を口コミしてぇ…最近の投稿を改めて振り返って見ると耕作地の写真ばかり…おいらの投稿を初見の方ならば、「田んぼや畑が好きなのかな?」とかきっと思ってしまう筈…それ相応な物件であれば誰か他の人が口コミするだろうと考えて誰も行かないような物件ばかりを優先してしまうんだけど、やっぱしおいらの本領はこちらにある。全てのHARDCORE山城めぐら〜に栄光あれ〜
安坂城(城山)は麻績城の南東約3.0km、安坂川西岸(左岸)、麻績川南岸(左岸)、標高851mの通称、城山山頂部を中心に立地する要害です。東麓の安坂川からの比高は195m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある、東麓の「安坂神社」からとなり、本殿背後から獣柵ゲートを開けて登城路へと入る。道は不明瞭な所もあるが上を目指せば迷う事は無い。
該地の周辺には総称で安坂古墳群と呼ばれる積石塚古墳等が点在しており、この城山自体にも尾根筋、山頂部等に複数の古墳が散在していたと考えられている。縄張は部分でこれ等跡地を活用し東西に長く展開、謂わゆる罰当たり物件でもある。
築城年代は不明、築城者は伝承から麻績長親の次男、安坂次郎長国、又、武田氏時代の城主として安藤加賀守の名が伝えられている。加賀守は、天正壬午の乱の際に当地を逐われ更級郡へ脱し、荒砥城のリア攻めマップにある安藤氏館に居したとも。
現在の長野自動車道から外れてしまうので気付き難いが往時の安坂は交通の要衝である。安坂城の東方約4.4kmの山塊山中に位置する四十八曲峠は、古くは麻績御厨と坂城御厨を結んでいた道筋の中間点、又、同城の南東約5.7kmの山塊山中に位置する修那羅峠は、麻績と律令制下における東山道の駅家、小県郡の浦野駅とを結んでいた東山道支道から分岐する間道の中間点であり、両道は古代から人馬の往来が盛んであった。安坂城の立地とはこれ等を扼す正に麻績側の関門の地に当たる。
随所に残る石積みがよく目立つ山城だが、土留めに使われている石の殆どは、積石塚古墳を崩して活用しているものだと推測されている。特に主郭の土塁の前面には石室の名残りと思われる土坑、その天板石と思われる平石等がそのまま残されており、それを裏付ける傍証の一つとも言えるだろう。段の付いた主郭部の削平は良好、主郭西側山側背後には大堀切1条を含む四連続堀切が穿たれており土の遺構も見逃せない。又、主郭部の南側に付く腰郭の西側山側背後をカバーする竪石塁には誰でも萌える事間違い無し。全体的に見れば各パートがキャラ立ちしたお城、隠れた良城だと言える。
天正十年(西暦1582年)八月三日、春日志摩守、同常陸介、同三河守宛、上杉景勝朱印状には、「従最前忠信、就中、今般両度抽忠勤に付而、安坂之地出置之候、弥当国静謐之上、可令観賞者也、仍如件、」とあり、上杉景勝は、宛名人等に、両度の忠勤抜きん出る事を鑑みて「安坂之地」を宛行っている。天正壬午の乱の際には小笠原氏との境目となった青柳、麻績だが、その後背地を春日氏に宛行った事は、推測するに宛名人等が、青柳城、麻績城、何れかの要害の城番衆だった事を意味しているのかもしれない。この時期における安坂城の動向は不明ではあるが、交通の要衝故に何らかの利用があった可能性は十分に考えられる。
※安坂古墳群〜城山に古墳が存在していた事は素人眼にでも判るのだが行政側に古墳としての認識は無い。ちなみに安坂城自体は東筑摩郡筑北村の指定史跡だ。
※青柳城、麻績城、何れかの要害の城番衆だった〜この時期の青柳城の城番衆の一人に春日源太左衛門があったそうだが…宛名人等の何れかであろうか。
※賞味期限は切れているけど、一応、4月の写真っす。