根知城(ねちじょう)
根知城の基本情報
通称・別名
- [根小屋城・上城山城・栗山城]
所在地
- 新潟県糸魚川市大字根小屋
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 上杉謙信
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 村上氏、仁科氏、西方氏、堀氏
廃城年
- 慶長4年(1599)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- 県史跡(根知城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
勝山城(新潟県糸魚川市)[10.7km]
不動山城(新潟県糸魚川市)[11.4km]
平倉城(長野県北安曇郡)[15.9km]
宮崎城(富山県下新川郡)[25.3km]
徳合城(新潟県糸魚川市)[25.7km]
内山城(富山県黒部市)[30.5km]
鮫ヶ尾城(新潟県妙高市)[33.5km]
福平城(長野県長野市)[34.6km]
鳥坂城(新潟県妙高市)[35.0km]
若栗城(富山県黒部市)[35.0km]
根知城の解説文
根知城の口コミ情報
2025年09月06日 尼崎城因幡守一口城主
根知城
[登城口(根小屋口)探索編🧭]
公共機関での進軍の一例。大糸線🛤️(松本〜信濃<大>町〜<糸>魚川)で糸魚川駅より出発し、糸魚川から3駅の根知駅より出陣。
駅前の根知観光マップ(写真①)には、イラスト上では駅舎(現在地)の後ろ連なる山を辿っていけば狼煙のイラストや根知城跡が見えてきます。
また、相撲のイラストの上の方に<安福寺>とありこちらが村上義清公のお墓があるお寺でした。安福寺の横に<村上義清終焉の地>と書かれている所も根知城の登山口でしたがこちらは殿屋敷や本丸を経由しない上城山城への登山口でした。
本題に戻って、駅から北進(日本海側)し写真②の交差点をスキー場や塩の道方面への矢印が出ている方へ右折して写真③の踏切を越えていくと根知城跡の道標(写真④)があり、そちらに沿って進み最後はG-マップを頼りに登山口への入口(写真⑤)に辿り着きました。写真⑤手前のミラーの位置から写真⑥正面の道を道なりに上がっていけば<根知城跡根小屋口>に辿り着けます。
私は登山後に安福寺の村上義清公の墓所を目指す際に見つけたのですが写真⑤の駐車場🅿️標識の右奥の建物が根小屋多目的集会施設(根小屋会館&根小屋バス停🚏)(写真⑦)で建物の左端に根知城跡の説明板(写真⑧)がありました。写真⑥地点から山城登山に向かうのに多少の遠回りになるかもしれませんがウォーミングアップがてら立ち寄って予習してから山城に向かうのもいいかもしれません‼️
2025年09月06日 尼崎城因幡守一口城主
根知城
[山城登山前編]
登城口探索編の写真⑥地点から約2分で勝蓮寺の鐘(写真①)横を通過し、さらにそこから1分前後で根知城跡根小屋口の登山口(写真②)に到着。ここで腹が減っては戦はできぬと登山口で事前に購入していた謙信の笹寿司を食べて😋出陣✊登山序盤は写真③、④の通り登りが続きしんどかったのですが保存会の方々の設けて下さった階段のお陰で歩きやすかったのとルートは間違っていないんだなという安心感がありました。
当日は珍しく他の登山者の方とすれ違い挨拶。まさか夏の山城で他の方とすれ違うことはないかと思っていたのでお城仲間がいらっしゃると感激してしまいました🤩
登山口より30分弱で殿屋敷(写真⑤)に到着。殿屋敷を散策したところ広大な削平地に庭園の庭石の痕跡かと思われる石🪨(写真⑥)がありました。殿屋敷から約4分で古城地蔵之館(写真⑦)に到着。※この館にお地蔵さんはいらっしゃいませんでした。こちらからは西に流れる姫川や天然の障壁になりそうな山⛰️(写真⑧)が木々の合間から見えていました。村上義清公は上杉謙信公を頼ってきたので根知城の東側は春日山城方面なので安心感があったと思われるので、西側の越後・越中の境を守るためにこの山を山城築城の地に選定したような気がしました🤔
2025年09月06日 尼崎城因幡守一口城主
根知城
[山城登山後編]
前編の地蔵之館から館の後方の道を進もうかと思いましたが(写真①)中央の下の道の方が先人方が歩かれた痕跡があったので下の道を進軍。進軍後間も無く堀切(写真②)を発見‼️地蔵之館の後方を進めば堀切に突き当たるところでした。※下山時、堀切の上から進めるか確認したところ進むには躊躇しそうな傾斜でした😨
堀切見学後、本丸を目指して進む道中、切岸(写真③)と思われる遺構が見られました。本丸跡まであとわずかの所で熊の糞🐻💩(写真④)らしきものがありましたが乾いていたので大丈夫かなと思い進みました。
地蔵之館から15分弱で本丸跡(写真⑤)に到着。見晴らしの良い所で日本海方面(写真⑥)を眺め、暑い夏に頑張って登って良かったです‼️
さらに後方の山(写真⑦)が上城山城(H525.2m)ですが当日は本丸(H約250m)で折り返し。※下山後に発見したお城の説明板では本丸から少しだけ上城山城に進めば堀切があったようで見逃したのが残念でした😢本丸を後にして防御の遺構探しを楽しみながら下山。切岸+曲輪(写真⑧)など山の地形を活用して要所に手を加え防御の仕掛けを数多く施した山城に感じられました。攻城側は進軍すれば知らないうちに窮地に追い込まれそう😱な印象を受ける防御力の高そうな山城でした。
2025年09月06日 尼崎城因幡守一口城主
村上義清公墓所[根知城 遺構・復元物]
根知城下山後、G-マップを確認したところ村上義清公の墓所が根知城根小屋口(登山口)から10分弱のところにあることが分かったのでお参りに向かいました。
根知城から麓に下り根知駅と反対方向に進んでいくと墓所入口への目印の山門(写真①)が左手に見えてくるのでそちらに進まず道の右手(山手側)の仁王堂入口バス停🚏(写真②)から坂道(写真③)を上がっていきます。
写真④の右側の階段を上がると安福寺(写真⑤)ですが義清公のお墓は本堂と道を挟んだ墓地の中にあります。
墓地に進む(写真⑥)と歴住塔(写真⑦)の右隣に村上義清公のお墓🪦(写真⑧)がありました。根知城の素晴らしい山城を見せて頂いたお礼にお墓周辺の草🌱や落ち葉🍂を取り除いて手を合わせました🙏
2025年09月06日 尼崎城因幡守一口城主
ウツグラ館村上義清終焉之地[根知城 碑・説明板]
村上義清公のお墓参りをした後、G-マップで村上義清公終焉の地という表記も見つけたのでこちらも訪れてみました。
県道川尻小谷糸魚川線・栗山橋の銘板があった橋(写真①)を渡って進んでいくと案内板と柱(写真②)が建っていました。柱の字は消えていましたが字の跡が残っていて目を凝らして見ると「ウツグラ館村上義清終焉之地」と読み取れました。(写真③:柱の後半の文字(義清終焉之地)をズーム)
こちらの説明板(写真④)を見ると当地は根知城の詰めの城・上城山城(写真⑤)への登山口になっているようです⛰️
根知駅に戻る前に列車の時間に余裕があったので写真④の説明板の地図の右下に記載のあるフォッサマグナパークで糸魚川-静岡構造線の断層破砕帯を見学後、根知城の遠景(写真⑥、⑦)を眺めてみました。
フォッサマグナパークから根知駅に向かう道中、国道148号の根知谷入口交差点🚥の所の案内看板の最下部に「戦国武将村上義清(終焉の地)根知城跡」(写真⑧)があり感激しました🤩この看板の反対側は「しろ池の森」の看板の下は城跡の看板ではなく「駒ヶ岳・戸倉山登山口」の看板になっていました⛰️
2023年05月21日 気分爽快治部少輔
上城山城[根知城 周辺城郭]
根知城(根小屋城)主郭先の大堀切を越えた後、幾つかの堀切と平坦地を超えて30分程度ひたすら尾根道(藪で両脇が良く見えませんが、道幅は狭い)を歩くと詰の城に到着です。藪が少ない雪降る前の晩秋に訪れると良いでしょう。
③左の靄がかかっている所が山頂
⑧山頂の平坦地
2023年05月21日 気分爽快治部少輔
根知城
地元の武将、村上義清の終の住処となった根知城に遠征してきました。規模の大きな山城で、詰の城である上城山城まで行くと、もはや山登りの感覚です。登城路はジグザグになっているので、高さをあまり実感しませんが、結構登っているはずです。主郭からの眺望は素晴らしいことでしょうが、残念ながら何も見えませんでした。贅沢言えば、晴れた日に攻城したい場所です。
①練兵所手前、大堀切の土橋
②殿屋敷前の切岸
③殿屋敷の石垣
④殿屋敷先の竪堀
⑤殿屋敷先の郭
⑥⑤の先の堀切
⑦主郭の虎口状入口
⑧主郭と土塁
2019年05月05日 ️…
根知城
城山山頂は明確な踏みあとがあるのでピークハントできますが、遺構の確認は厳しめです。山頂少し手前の松の木に古い熊の爪痕がありました。
2017年06月22日 安田民部卿秀俊
根知城
城跡山麓の根小屋集落にある安福寺に根知城主 村上義清の墓所があります。(村上義清の墓と書かれてるだけで解説板は無し)
2012年05月07日 まるさん伊豆守小町時間割
根知城
現在、今年の大雪で折れた木が至るところに倒れていまして、それと残雪も多少ありまして、どこが道なのかよくわからない状況です
ただ、ひたすら高い方向へ進めば本丸跡に辿り着けるかも知れませんが…
σ(^_^)途中で引き返しました
本丸目指して登るならば、来月以降かな?って印象は持ちました
2010年10月16日 傾奇揚げ仙兵衛
根知城
R-148を長野方面に向かい根知谷に左折、踏み切りを渡って根知小屋へ右折、しばらく進むと根知城址入口の標柱が
根知城の周辺スポット情報
村上義清公墓所(遺構・復元物)
ウツグラ館村上義清終焉之地(碑・説明板)
上城山城(周辺城郭)
大網城(長坂城・城の越)(周辺城郭)
城から眺めると、姫川が城の西側を、根知川が北側から東側を流れており、この両川はあたかも水を蓄えた堀のようにも見えます。
根知谷は盆地であると同時に独立性をもった地区で、根知城はこの恵まれた自然条件を大規模に利用して築かれており、戦国時代の山城及び館城の特徴をよく留めています。
3城の中で中心的な役割を果たしていた根小屋城は、標高320mに位置する戦国時代の典型的な尾根城です。本丸跡と殿屋敷と称する郭跡を中心に、郭跡17、削平地201、堀切16、竪堀15というように大規模な遺構を見事に残しています。
根知城の築城年代は明らかではありませんが、永禄11年(1568)以降の上杉謙信の書状に、同地の警備を厳重にせよという指令が、何度も出されています。
根知谷は、信越国境の要の地であるだけに、謙信も根知城を整備し、強固なものにしたと考えられます。
武田信玄に追われ、川中島の合戦の発端を作った信濃の武将・村上義清は、謙信の信頼が厚く、永禄8年(1565)には根知城主に任じられました。村上義清の死後、城主は次々と代わりましたが、景勝の会津移封後、根知城に入った堀清重は、慶長4年(1599)の上杉遺民一揆の際に根知城を廃し、慶長6年(1601)には糸魚川市一の宮に清崎城を築いたと言われています。