古安曽の御所畑館
古安曽の御所畑館([塩田城 周辺城郭])
塩田城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「古安曽の御所畑館」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
古安曽の御所畑館の口コミ情報
2024年05月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
古安曽の御所畑館は塩田城の東北東約2.5km、尾根川西岸(左岸)、標高512mの丘陵地上平場に立地した居館です。周辺地域の塩田平は「信州の鎌倉」と呼ばれた他、近世に入ると「塩田三万石」とも呼ばれた豊穣の地である。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…リア攻め自体は数分で終わるので車の捨て場所はそこら辺で大丈夫だ。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地には「御所畑」の小字が残っている事から高貴な人物が居館した事が推測出来る。一説によれば、塩田北条氏初代、義政の子、二代国時の兄、越後守時治が館とする。
該地の塩田の文書上の初見は古く、藤原経房の日記、「吉記」、承安四年(西暦1174年)八月十六日の条に、東寺最勝光院別当が、同院領小縣郡塩田庄の年貢を布で千反進上したい旨を後白河院に言上したとあるのが最初、塩田の地は最勝光院の荘園であり、最勝光院の別当は東寺だった事から実質的には東寺が塩田庄の領家だったとも言える。
文治二年(西暦1186年)正月八日、源頼朝下文には、「下 信濃國塩田庄 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗忠久 右人為地頭職、従行庄務、御年貢以下、任先例可致其勤之状如件、以下、」とあり、源頼朝は惟宗忠久を塩田庄の地頭職に補任している。同名は言わずもがなの薩摩島津氏の祖だが、信濃国における確実な地頭補任状としては最初であり、頼朝が塩田庄を同国の枢要の地として重要視していた事に疑いは無い。ちなみに忠久の齢はこの時僅かに六歳、頼朝の御落胤説を補強するものにはならないのだろうか。
建治三年(西暦1277年)四月四日、鎌倉幕府八代執権、北条時宗の連署を務めた北条氏の一門、北条義政は突如として同職を辞して善光寺に出奔、出家して道義と号し、五月には塩田庄に遁世した。以降、同地の北条氏は塩田北条氏として三代五十七年に及ぶ。居館の主とも推測される越後守時治は、「新後撰和歌集」、「玉葉和歌集」にも入集される歌人としても知られる。
居館の現況は…「御所畑」の小字からも判るように今も正しく耕作地であり、他に一般住宅とその敷地等となっている。縄張図はあくまで信濃のお城の神が居館地として推測する範囲を示したものに過ぎず、その位置や敷地範囲に誤りがある可能性がある。遺構そのものが確認出来ない以上、リア攻めはどうしようもない。
名称にある「古安曽」は今に残る地名であり、その由来には阿蘇氏との関係性が指摘されている。即ち、同氏は「古事記」には、神八井耳命(かんやいみみのみこと)を始祖とし、阿蘇君(あそのきみ)、意富臣(おふのおみ)、小子部連(ちいさこべのむらじ)等と分れ、科野(信濃)国の他、数ヶ国の国造となったと記されている。科野の国造となった阿蘇氏の一族は塩田平に土着したと考察され、その根拠の一つとして挙げられるのが、阿曽岡、阿曽岡山の地名である。又、他に同じ塩田城のリア攻めマップにある生島足島神社の国魂神が延喜式の大社として現存する事(国魂神は国造の治所に祀られるのが普通である。)、一族の小子部氏の名が小県(小子部の県の意味である。)郡として残っている事等が挙げられている。国としての信濃は正にこの塩田平から始まったのかもしれない。
※文治元年(西暦1185年)、源頼朝は全国惣地頭に初めて任ぜられる。名実共に地頭職の任命権者ともなった訳だ。
※家譜によると惟宗忠久の生年は治承三年(西暦1179年)十二月三十一日とされる。これを正しいものとするならば、既に齢六歳より以前に左兵衛尉に任官し、又、元服していた可能性すら考えられる。
※写真④は該地南方を東西に通る鎌倉道(推定)の説明板と標柱っす。