古城(海野城・物見城)
古城(海野城・物見城)([真田氏館 周辺城郭])
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古城(海野城・物見城)の口コミ情報
2022年03月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
古城(海野城・物見城)は真田氏館の南西約8.0km、千曲川北岸、標高約495mの河岸段丘台地上平場に城域が存します。
行き方は…行けないです。城域の東側は崩落で接近不能、南側は千曲川の河川敷、北側はしなの鉄道の軌道敷、西側からは舗装路が付いてますが、どうやら千曲川の護岸工事に伴うものらしくガードマンが常駐、進入を厳しく制限しています。ちなちに己の力量を鑑みてガードマンと話を付ければ何とかなるでしょう。男前で良かったです。
築城年代は不明、築城者は海野氏です。海野氏の出自は滋野姓、天歴四年(西暦950年)二月、滋野恒信が信濃国望月牧牧監となって下向し後に幸俊と改名、海野氏の祖となりました。その子である信濃介海野小太郎幸経は天延元年(西暦973年)九月、海野荘の下司となりました。が、海野氏の出自は諸説あって、在地土豪としての海野氏が開発主体である滋野氏と関係を持ち、御牧の左馬令の荘園化が進む過程においてその勢力を拡大させていったとの説が一番しっくりするような…
お城の現況は崖地、河川敷、軌道敷、護岸堤防等となっています。該地は令和元年の台風19号によって大きな被害を受けている事からも理解出来るように、かなり古い時代から千曲川の流れによって崩落していて、既に旧態を想像する以前の問題ですわ…千曲川に面する河岸段丘台地の一段目を活用した要害だったとしか言いようがありません。該地は古城、周辺には奥座の地名が残ります。又、昭和三十年(西暦1955年)に竣工したかつての護岸堤防は城腰堤防と呼ばれていたようで、「城腰」の地名の存在も窺わせています。
現在も崩落が日々進行している場所(ほっとけばしなの鉄道も危うい…)です。海野氏は古城を捨てて上部段丘台地上の太平寺城に引越しましたがその気持ちがよく解ります。物見城の別称から引き続きその利用があったかとは思われるんですが…ハイパーマニア向け。てか訪ねるなら対岸から眺めるだけにしときましょう。