宮ノ入祢津氏居館
宮ノ入祢津氏居館([真田氏館 周辺城郭])
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宮ノ入祢津氏居館の口コミ情報
2024年09月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
宮ノ入祢津氏居館は真田氏館の南東約6.8km、標高約738mの段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは祢津氏です。
居館の現況は耕作地、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。小沢(用水路?)に挟まれた段丘台地の上段に当たり、開発領主である武士の住まう場所としては最良の部類に入るだろう。縄張的には段の付いた削平地であり、縄張図では通称1郭と通称2郭に大別される。城郭遺構としては郭間を隔てる土塁の残欠が確認出来るが、後世の改変も著しく居館地の全体像は掴み難い。ちなみに敷地内には、「宮ノ入のカヤ(榧)」て呼ばれる推定樹齢六百年以上のカヤの木が屹立する。居館地の庭木だったとも伝わっており、現在は長野県指定天然記念物でもある。
〜以下は祢津氏の歴史についての続き。以前の歴史については同じ真田氏館のリア攻めマップにある古見立祢津氏居館を参照して下さい。ちなみに2回でも終わらんかってん〜
室町時代、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」は、結果として小笠原長秀の信濃守護職を解いたが、その一方で信濃国は幕府の御領所として代官による直轄支配を受ける事態に発展する。代官として下向した細川慈忠は、応永二十二年(西暦1415年)にはあらゆる抵抗を排して領国の安定化に一応の成果を納め、応永三十二年(西暦1425年)、信濃守護職に長秀の舎弟、小笠原政康(小笠原氏中興の祖とも評価される優れた人物だ。)が補任される。
この時期、幕府と対立を深めていたのが関東公方、足利持氏であり、信濃の国人衆は持氏を支持する者が多かった。小笠原政康の信濃守護職補任は、この持氏に対する牽制でもある。永享八年(西暦1436年)、政康は、持氏に通じる蘆田下野守の討伐に赴き、小県郡祢津に攻め寄せ、芝生田、別府の両城を落としている。
永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「二十七番 大井三河守殿 (大井)河内守殿 (大井)対馬守殿 禰津遠江守殿」とあり、信濃守護、小笠原政康に従っての参陣が確認出来る。又、別史料には、遠江守麾下に、実田源太、実田源五、実田源六の名が見られる。「実田」は即ち、「真田」である。ちなみに当時は政康の威令が信濃全土を覆った時代でもあった。
天文十年(西暦1541年)五月、海野氏は「海野平の戦い」により滅亡するが、祢津氏は神氏の一党でもあった事から諏訪頼重を通じて本領を安堵されたようだ。「高白斎記」、天文十一年(西暦1542年)十二月十五日の条には、祢津宮内大輔元直の息女が武田晴信に輿入れしたとの記述がある。輿入れに関しては諸説あって定まらないので詳細を語らないが、信玄はこの祢津御寮人との間に六男、信清を儲けている(安田信清、後に米沢藩武田氏初代当主、信玄の男子としては最も長命だった。)。ちなみに元直の二男、政直(松鴎軒常安)の正妻は武田信虎の息女であり、武田氏と祢津氏は重縁関係にあった事になる。
「高白斎記」、天文二十二年(西暦1555年)八月十六日の条によれば、祢津(元直か。)に更級郡庄内ノ中千貫、壽量軒(元直の二男、松鶴軒か。)に埴科郡福井四百貫が宛行われている。
武田信玄は、永禄九年(西暦1566年)からその翌年にかけて家臣団と被官衆に起請文の提出をそれぞれに求め、差し出された物を小県郡の大社、塩田城のリア攻めマップにある生島足島神社に納めているが、祢津氏当主、政直も出家名である松鴎軒常安として単独での提出が認められる。
※輿入れに関しては諸説あって定まらない〜諏訪御寮人の事とする説がある。
※祢津御寮人〜信清の生年、永禄三年(西暦1560年)からすると、元直の息女ではなく政直の息女とする説がある。ちなみに信清の没年齢は83歳、一族の悲運の中にあって彼だけは長命を保った。
※写真⑧はお花が写り込んでしまっているけど、居館地から見る同じ真田氏館のリア攻めマップにある祢津上の城の遠景っす。祢津氏の逃げ込み城だと推測されている。