西深井居館(正村屋敷)
西深井居館(正村屋敷)([真田氏館 周辺城郭])
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西深井居館(正村屋敷)の口コミ情報
2025年09月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
西深井居館(正村屋敷)は真田氏館の南南西約6.1km、千曲川北岸(右岸)、標高約535mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。
該地の西深井は、中世の深井郷、近世の深井村に含まれる地域だが中世〜戦国時代には見られない地名である。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真田信之に出仕した正(庄)村氏と伝わるが事跡等については殆ど不明、真田氏家臣団を雑に見てみたがその名を探し出す事は出来なかった。小身であろうか。個人的には正村氏よりも、深井郷の地頭職であった深井氏、もしくはその一族の居館地と見るべきだと考えている。正村氏が居したとすればその後の事であろう。深井氏については同じ真田氏館のリア攻めマップにある深井氏居館を併せて参照して下さい。
天文十年(西暦1541年)五月、「海野平の戦い」に敗れ、僅かな一族、郎党と共に関東管領を頼って上州へと逃れた海野氏当主、棟綱だが、これに付き従った内の一人に深井棟廣がいる。
天文十年菊月(九月)廿四日、蓮花(華)定院宛、深井棟廣御報には、「返々、御音問忝由被申候、不二院可及御返書入存候、所用候所、信濃被罷越候間、御書中可相届候、定而忝由可被申候、如御書中、不慮儀以、當國上州(海野)棟綱被罷除、山内(上杉憲政)殿様へ本意儀、被頼奉候間、急度可被致還住由存計候、遠路処忝御筆信、一段忝由被申候、某所も思召寄御一札畏入候、何様帰国時分具ニ御礼可被申述候、是も其時分可申達候間、不能一二候、恐々謹言、」とあり、深井棟廣は、宿坊(海野氏)の蓮華定院に、海野棟綱が上州へ罷り除かれた事を報せ、関東管領、山内上杉憲政に一刻も早く還住出来るよう計らいを頼んでいる事を伝えている。
深井棟廣は本書状を最後に史料に現れなくなるが、深井氏は武田氏の信濃経略によって小県郡へ還住を果たしたようだ。「加沢記」によれば、天正七年(西暦1579年)九月、上州に討ち入った真田勢の内に馬廻として深井三弥(深井氏の過去帳にある、眞田右馬之亮綱重の事か。)の名が見られる。生島足島神社文書中、「海野幸光等連署起請文」には、海野左馬亮幸光 常田七左衛門尉綱富 尾山右衛門尉守重 桜井駿河守棟昌 小艸野若狭守隆吉 下屋与三右衛門尉棟 奈良本新八郎棟広 石井右京亮棟喜 桜井平内左衛門尉綱吉 神尾惣左衛門房友 金井彦右衛門房次と共に真田右馬助綱吉の名が見られるが、同名が棟廣の養嗣子となって深井氏の名跡を相伝したのではないかとの指摘がある。綱吉は受領名の名乗りから真田右馬介頼昌の一男とも考察されており、即ち、真田幸綱の実兄に当たる人物ではないかとも推測されている。前述した三弥はこの綱吉の子、その子、外記は真田信繁に付き従い、慶長二十年(西暦1615年)の「大坂夏の陣」において討死、その子、右馬助は真田信之に出仕したが、元和八年(西暦1622年)、松代を退去して旧地に還住し帰農したと伝わる。
居館の現況は…果樹園、一般住宅とその敷地等となっている。果樹園の景色に埋没気味だが、信濃では珍しい事に日の字形の土塁(石塁)が巡っており、塁上には正村氏の氏神を祀る立派な小社が建っている。この土塁の築造時期にあっては不明だが、現在は果樹園の経営に支障を来たす土盛りとなっており、往時のものと判定してもよいと思う。ちなみに北側の墓地には中世の物と思しき大量の五輪の集積が見られる。
元和八年(西暦1622年)の「貫高 小県分限帳」には、「合四貫貳百五十文五 庄むら七左衛門知行」とあり、小県郡内に庄村氏の知行地があった事が確認出来るがその場所にあっては書かれていない。細かく散在していか蔵米取りの家柄なのだろう。この年は真田家の松代藩への加増移封の年にも当たる訳だがこれに従ったのかは不明である。ちなみに前述した真田右馬助綱吉は、海野氏の菩提寺、曹洞宗の寺院、瑞泉山興善寺と高野山蓮華定院において供養されているそうだが、元和九年(西暦1623年)、蓮華定院に同名の供養を依頼したのが庄村金右衛門なる人物である。
※流布している深井氏の研究は史料の拡大解釈が多分に見受けられる。確実と言えない部分はばっさりと切り捨てた。
※寛永五年(西暦1628年)の沼田藩真田家には深井数馬なる人物の名が見られる。
※西深井〜承応三年(西暦1654年)に深井村は上深井村と下深井村に分村している。下深井村に当たる地域だと思われる。
※僅かな一族、郎党と共に関東管領を頼って上州へと逃れた海野氏当主、棟綱〜同道した内の一人には真田幸綱もいる。結果的に見れば上州において袂を分かった事になり、真田氏興隆の端緒ともなった訳だ。