長命寺館

長命寺館([真田氏館  周辺城郭])

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長命寺館の口コミ情報

2024年09月05日 内記かずりヾ(・ε・。)


長命寺館は真田氏館の南東約7.2km、標高約705mの段丘台地緩斜面上平場に立地したと推測される居館です。該地の北側には北西山塊から伸びる山尾根が背後に迫っている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている真言宗智山派の寺院、「長命寺」を目標に設定して下さい。当然、車も捨てられる。

まず、色物物件である。「信濃の山城と館3、上田・小県編」に掲載がある。信濃のお城の神は「上田小県誌」の記述、「…長命寺の位置も城郭の跡ではないかと推測される形状にあるが、今の所確実な裏付けがない。」を元に調査に入ったようだが、「ここに館があったかについては全くの不明」と身も蓋も無い事を仰られている。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。長命寺は元は新張牧奈良原にあり、鎌倉時代の初期に現在地に移ったとされる。又、祢津郷に位置するのだから、住したのは祢津氏やその一党に関わる者とするのが自然だろう。同氏は平安時代の末期にはその活動が見られる氏族である。

居館の現況は…上記理由からリア攻めすら拒む物件だが、少なくとも郡誌の言いたい事は十分理解出来る。長命寺の東側に建つ大日堂も含めて、居館地として成立するだけの何かを感じ取る事は可能だろう。但し、やはり寺地の移動時期がネックでもある。

〜以下は祢津氏の歴史についての続き。以前の歴史については同じ真田氏館のリア攻めマップにある古見立祢津氏居館、宮ノ入祢津氏居館を参照して下さい。ちなみに3回でも終わらんかってん〜

年次不詳、八月十九日、山家薩摩守、大井源八郎(昌業)、依田又左衛門尉、浦野宮内左衛門尉宛、武田信玄書状には、「以好便染筆候、従岩櫃如注進者、越後衆少々至沼田著陣、近日吾妻へ可成揺之由候、信玄此表ニ立馬候上者、上州エ之行不實候、但非可油断候間、祢津(元直)、望月長野原迄立遣候、岩櫃、大戸両城之間何地ニ候共、敵及行所ヘ可被移之旨、成下知候、畢竟、城内堅固可為肝要候、恐々謹言、」とあり、武田信玄は、宛名人に、岩櫃から、越後衆少々が吾妻を揺るがすべく沼田に着陣したとの注進を受けて、祢津、望月を吾妻郡長野原に立て遣わした事を報じ、岩櫃、大戸の両城の間で敵の進む事あれば、何れの地においても移りてこれに処する旨を下知したと言っている。

永禄十年(西暦1567年)十一月廿三日、松鶴軒(祢津政直)宛、武田信玄宛行状案には、「就于上州箕輪在城、小鼻之郷三百貫、除正覚分、大窪之郷百貫進之候、猶春日弾正(虎綱)忠可申候、恐々謹言、」とあり、武田信玄は、松鶴軒(政直)に、上州箕輪城の在城に当たり、正覚分を除く上野国小鼻之郷三百貫、大窪之郷百貫の地を宛行っている。武田氏時代の祢津氏は上州での活動を主としていた事が判る。

政直の嫡子、月直は、天正三年(西暦1575年)五月二十一日、「長篠の戦い」において討死、二男が幼少であった事から家督は甥の昌綱が継いだ。同名の生母は真田幸綱の実妹(養女)である。天正十年(西暦1582年)三月の甲州征伐の際には、政直は飯山城城代にあり難を逃れている。

天正壬午の乱に際しては、真田氏以上に従属と離反を繰り返している。天正十年(西暦1582年)十月廿二日、祢津宮内太輔(昌綱)宛、北条氏直書状には、「真田及手切、去十九向其在所相動處、留守衆堅固之防戦故、敵指行不致得之由、従小諸注進候、弥堅固之備致之様可被申越候、猶以敵動之様子、節々注進候様可被申越候、室賀(一葉斎)如注進者、一切無衆奥郡之者不相調由候、然上敗北不可有程候、恐々謹言、」とあり、北条氏直は、手切に及んだ真田昌幸が、祢津昌綱の小諸出陣の隙を突いて祢津に攻め寄せたが、昌綱の留守衆が堅固に防戦し、昌幸はさしたる手立ても得られなかったと言っている。北条氏は東信経略の旗頭として祢津氏に重きを置いたが、徳川氏と北条氏の和睦により新知行地の履行が破産した事から後には小諸城において上杉氏に服属した。

程なくして、松平五郎左衛門尉(大須賀康高)を介して徳川氏に服属、しかし、後に真田昌幸が徳川氏に服属した事を嫌い、再び上杉氏に帰属、最終的には、天正十三年(西暦1585年)七月十五日、上杉景勝の仲裁により、同年九月五日、遂に昌幸に同心、高禄を以って迎えられ、後に祢津氏は家臣化を果たしている。「松代藩史」には、「家中で腕にもっとも覚えあり」との記述があるんだそう。

※年次不詳〜永禄九年(西暦1566年)とする。

※上州箕輪城の在城に当たり〜当時の箕輪城城代は、真田幸綱、もしくはその子、信綱であったとする説がある。武田氏時代には真田氏の寄子同心衆の一氏であったと見るべきか。

※写真⑧は文中にある大日堂、居館地として存在したと仮定するならば、物見の場、櫓台等の適地である。

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