古見立祢津氏居館(古御館)

古見立祢津氏居館(古御館)([真田氏館  周辺城郭])

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古見立祢津氏居館(古御館)の口コミ情報

2024年08月30日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、巷で大人気の「逃げ若」こと「逃げ上手の若君」だけど、作中には祢津弧次郎なる人物が北条時行の郎党として登場する。当然、架空の人物ではあるんだけど、弧次郎が出自とする祢津氏自体は実在の氏族だ。個人的には史実に対して毀損が見られない絶妙な人物設定だと思っている。注文を付けるとしたら鷹を御供にして欲しかった…漫画も読んだ事無いしアニメも観た事無いけど…

古見立祢津氏居館(古御館)は、真田氏館の南東約7.3km、標高約678mの段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。「古見立」は「古御館」であり、後者は地籍として残っている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は南側の祢津郵便局に葉書でも出すふりをして捨てておこう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは祢津氏です。但し、確証は無いらしく、あくまで居館地の位置から推測されているに過ぎない。祢津氏以外には考え難いのも事実だが…

祢津氏は信濃の名族である。小県郡の武家の発祥は、まず最初に他田氏、次に滋野氏、その次に依田氏が起こったとされる。祢津氏は、この滋野氏の後裔を自称する海野氏の早くからの支流であり、海野氏二代当主、幸恒の二男、直家が祢津小次郎を称したのが始まりとされる。海野氏、祢津氏、望月氏は滋野三家とも呼ばれる滋野氏の嫡流家でもあり、海野氏は代々「小太郎」を、祢津氏は「小次郎」を、望月氏は「三郎」を通称している。

平安時代の末期には既に祢津氏の活動が確認出来る。保元元年(西暦1156年〉七月の「保元の乱」において、源義朝に従う武士の中に祢津神平貞直の名が見られ、治承四年(西暦1180年)から続いた「治承・寿永の乱」の際には、木曽義仲に従った根津三郎信貞の名が知られている。小県郡に割拠する海野氏の一党は義仲の有力なバックボーンの一つであった。

海野氏は木曽義仲の徒党であったが、十代当主、幸氏は、義仲の子、義高への忠節を逆に褒され、源頼朝によってその罪を特に不問とされた。復権は即ち、鎌倉幕府の有力御家人としてのスタートであり、祢津氏自体も、建久三年(西暦1190年)十月、頼朝の上洛に際して、根津次郎宗直、祢津小次郎宗道が随兵としてこれに同道している。

建武二年(西暦1335年)七月の「中先代の乱」に際しては、宗家の海野氏が御内人であった事から北条時行に加担、祢津氏の動向ははっきりしないが、海野氏の一党は同族相争う事が極端に少なかった事もあり、宗家に従い人数の中核を担っていたであろう事は想像に難くない。南北朝時代には南朝方として働き、「観応の擾乱」の際には直義方に与している。結果から見れば何れも失敗した事になるが、これが理由なのか海野氏とその一党はこの間における史料等に恵まれなくなる。

南北朝合一後の応永七年(西暦1400年)、信濃守護に赴任した小笠原長秀は強硬な姿勢を以て国人に臨み、結果として惣一揆の様相を呈する「大塔合戦」を招く事になるが、この際に「大塔の古砦」の大手門に攻め寄せたのが祢津氏の一党である。「大塔物語」には、祢津越後守遠光以下、祢津美濃入道法津、祢津宮内少輔時貞等、一門衆の他、桜井、別府(淡路守貞幸)、小田中、実田(上総守?貞信、真田氏の初見とする。)、曲尾、横尾等の諸氏(一族か。)の名が記されている。

居館の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。改変著しく旧態を見ないばかりか敷地範囲すら明確ではない。書く事が特に無いや。

該地は古見立古墳の旧跡でもあり、明治二十六年(西暦1893年)、石棺から副葬品の蕨手刀が出土している。日本最古の蕨手刀になるそうだが、写真を見る限りでは良好な状態である。又、現在では古墳の痕跡すら認められないが、庭先には「蕨手の直刀出土地」の石碑が建っている。

※鷹を御供に〜祢津氏は代々に亘り鷹匠であり、武家流放鷹術の一流を確立した。天正十四年(西暦1586年)、祢津宮内大輔(政直か。)が著した「祢津流鷹書」が今に残る。

※今回の突撃お宅訪問は留守のため空振り…大体三割の成功率、望んでいない時には家人からよく声を掛けられる。

※居館地と古墳が共存していた事になるのだが多くを語らない。

※滋野氏の後裔を自称する海野氏〜気を失う様な途方もない作業になるので真偽を語らない。海野氏とその支族の系図、系譜は、戦国時代には既に殆ど散逸していたと考えられている。確証が全く得られないのだ。個人的には、在庁官人等の一氏が、信濃国司、信濃牧監を歴任した滋野氏と縁戚関係等を以て結び付いたとする説を支持したい。

※室町時代以降の祢津氏については長くなるので別の機会に譲りたい。

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