深井氏居館(堀の内)

深井氏居館(堀の内)([真田氏館  周辺城郭])

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深井氏居館(堀の内)の口コミ情報

2025年09月18日 内記かずりヾ(・ε・。)


深井氏居館(堀の内)は真田氏館の南方約6.5km、千曲川北岸(右岸)、標高約533mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。

該地の深井郷は海野庄を構成する一郷であり、鎌倉時代を通じて滋野氏嫡流家、海野氏が地頭職であった。嘉暦四年(西暦1329年)三月、「諏方上宮五月會付流鏑馬之頭、花會頭与可為同前御射山頭結番之事」を定めた鎌倉幕府下知状案には、「七番五月會分 …(御射山)右頭、海野庄内深井、岩下両郷地頭等、深井海野次郎左衛門入道知行分、」とあり、深井、岩下両郷の地頭に深井(海野)次郎左衛門入道があった事が判る。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは、前記下知状案からも判るように海野氏の分流、深井氏です。応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、篠ノ井山王堂に三百余騎を以て張陣した海野宮内小輔幸義の麾下に「深井」の名が見られる。前述した次郎左衛門入道の後裔であろう。

「諏訪御符禮之古書」、寶徳二年(西暦1450年)庚午の条には、「一 海野本郷御符之禮五貫六百文代官深井依満」、寛正二年(西暦1461年)辛巳花會の条には、「一 前宮海野青木郷代官深井肥前守治光御符禮二貫三百文頭役十貫」、寛正二年辛巳御射山の条には、「賀頭深井肥前守治光御符之禮一貫八百文使孫六頭役十貫」、寛正六年(西暦1465年)乙酉五月會の条には、「左頭青木代官深井肥前守治光御符之禮一貫八百文使三郎頭役十貫」、應仁三年(西暦1469年)己丑御射山此年成文明の条には、「一 右頭海野本郷代官深井肥前守滋光御符之禮三貫三百文使三郎御鉾本一貫三百使一貫御頭役二十貫」、文明三年(西暦1471年)辛卯花會の条には、「一 宮頭深井肥前守滋光御符之禮三貫三百文使孫六四郎頭役十貫」、文明六年(西暦1474年)甲午明年花會御頭定には、「一 加頭青木深井肥前守滋光御符禮三貫三百文小宮山伊勢守貞数五百文使四郎」、文明七年(西暦1475年)乙未御射山御頭役定の条には、「一 上𡑭海野荘海野信濃守氏幸代官に深井肥前守滋光御符禮三貫三百卅六文使路銭一貫使四郎殿頭役三十貫」、文明九年(西暦1477年)丁酉五月會明年御頭役定の条には、「右頭深井郷深井肥前守滋光御符禮三貫使四郎頭役拾貫」、文明十二年(西暦1480年)庚子明年御射山御頭定の条には、「一 左頭海野庄信濃守氏幸代官深井肥前四郎殿使請取頭役五拾貫」、文明十三年(西暦1481年)辛丑明年御射山御頭定事の条には、「一 下𡑭深井肥前守滋光御符祝三貫三百使三良頭役拾貫」、文明十五年(西暦1483年)癸卯五月會明年御頭役定の条には、「加頭青木海野信濃守氏幸代官深井肥前守滋光御符禮二貫三百使彌三郎御頭役拾貫」、文明十六年(西暦1484年)甲辰御射山明年御頭役定の条には、「一 右頭海野庄海野信濃守氏幸代官深井肥前守滋光御符三貫三百三十三文使彌三郎」、文明十七年(西暦1485年)乙巳花會明年頭番役事の条には、「一 右頭深井滋光御符禮二貫三百使彌三郎」、長享二年(西暦1488年)戌申花會明年御頭役定の条には、「一 加頭前宮青木御符禮二貫三百海野代官深井代初勘解由左衛門尉満信使彌三郎」とあり、同書には、知行地である深井郷のみならず、海野庄の青木郷や本郷の代官等を務める深井肥前守治光の子であろう肥前守滋光の名が頻繁に登場する。

居館の現況は…畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっており、居館地は緩斜面上に占地している事もあって段が付けられている。改変著しく旧態は見ないが、西辺にはそのまま畑地に変貌した堀形が確認出来る。全体的な纏まりは良い方だろう。

「諏訪御符禮之古書」に、同じく海野氏の分流を自称する真田氏が登場する事は一度たりとて無いが、惣領家である海野氏の代官としても頻繁にその名が見られる深井氏が海野氏の有力な同族被官として家中において重きを為していた事に疑いは無い。天文十年(西暦1541年)五月、「海野平の戦い」に敗れ、関東管領を頼って上州へと逃れた海野氏当主、棟綱の近況を、宿坊の高野山蓮華定院に書状を以て報せたのは、当時の深井氏当主、棟廣である。

※深井氏についての続きは別の口コミで…

※「諏訪御符禮之古書」とは、文明三年(西暦1446)からの五十五年間、諏訪社上社の神事に御頭役等として勤仕した武士等を記した文書の事、当時の信濃の在地領主等が郷村単位の在名を冠して書かれている第一級史料であり、この点においては地方史の史料として他の追従を許さない。ちなみに深井肥前守滋光は同書の中で最も登場回数が多い人物だと思う。

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