東城(城山)
東城(城山)([小諸城 周辺城郭])
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東城(城山)の口コミ情報
2025年11月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
東城(城山)は小諸城の南南東約5.7km、湧玉川北岸(右岸)、標高約710mの段丘台地南縁上平場に立地する要害です。南麓の湧玉川からの比高は15m位でしょか。城域の南側は湧玉川が創造した幅員のある田切地形となっており、長土呂と和田の台地を大きく分断している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。農道を通れば城域に横付けが出来る。車もそこら辺に捨てられるが当日の農事によって左右されると思う。
築城年代、築城者は不明です。史料、伝承等も無く、何も判らないらしい。
該地の小諸市和田は、明治時代の初頭には和田村と呼ばれており、「長野県町村誌」の管轄沿革を読むと中世には大井庄の内である。室町時代後期の大井氏当主、大井美作守光照には五人の男子があり、長男の弾正貞晴は岩尾に、二男の宮内少輔貞家は根々井に、三男の兵部少輔信直は耳取に、四男の伊賀守光忠は小諸に、五男の大和守信広は武石に住したが、信濃のお城の神は、「耳取大井氏の勢力圏内にあるために、耳取城の東の守りに当たった砦と考えられる。城名はそこから出たのかもしれない。」と言っている。
但し、敢えて神に逆らうが、「耳取の勢力圏内」とする根拠が不明だ。距離が離れ過ぎている上に森山の一村を跨いでしまう。むしろ森山に寛元年間(西暦1243年〜1247年)から拠った森山大井氏に関係する城館ではないだろうか。同じ小諸城のリア攻めマップにある、同氏の居館城、西城に対する東城であった可能性の方が高いように思われる。何れにせよ、同族で全てが纏められてしまう、大井庄内の各氏の知行地範囲を正確に把握する事は極めて困難な作業だ。
町村誌の「和田村」の項に古跡としての記述は無いが、字地として「東城」が見られる。又、同誌、「市田村」の項を見ると、東城の西南西約0.5kmに位置する鷺林城の城主は、地士、下曽根内匠入道覚雲とも伝わっており謎は深まるばかりだ。
縄張は台地縁上に半島状の形状、2郭で構成されている。南側(縄張図における通称2郭の範囲となる。)はかつて耕作されていたらしいが、元々が単純な地形であるが故に大きな改変は無かったと思われる。明瞭な城郭遺構としては郭間を隔てる堀切が1条確認出来るが、連続する台地上を分断する堀切が見当たらないのは不自然か。この部分はかつて湿地帯か泥田だったのかもしれない。
がっつりな山城好きには好まれないんだろうけど、おいらは佐久平のお城にそんなものを求めていない。色んな形状や形態のお城があるからこそ、この趣味て豊かになるんじゃないのかな。佐久平には佐久平でしか見れないお城がある。田切の崖端に堀を掘れば城館として成立してしまう(幅員が広い分、山尾根の堀切なんて問題にならないぐらいの土木量だ。)のは実は凄い事なんじゃないかと…おいらはもっと経験を積む必要があるなぁ…
※夏場の探索は悲惨なんで止めておこう。
※写真⑥は確認したら後世の台地上へ登る農道の跡だった。少なくとも堀切が付くような場所ではない。
※写真⑧は南西麓、田切の底から撮影した近景っす。









