大石城
大石城([小諸城 周辺城郭])
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大石城の口コミ情報
2025年10月03日 内記かすりヾ(・ε・。)
大石城は小諸城の西北西約5.2km、千曲川北岸(右岸)、西沢川西岸(右岸)、標高約621mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路肩に捨てられる。ちなみにマップの3Dで仮想リア攻めが十分に可能なのでノーマルな方は訪ねる必要性が微塵も無い。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは大石氏、次に岡村氏と伝わる。
該地の小県郡大石村の村名の由来は、村内の耕地に巨石が散在していた事による。村域は大石の他に、有津、金子、倉原(原)、牧屋(信濃十六牧の一つ、新治牧の牧官の屋敷地だったとも。)の地に跨っており、現在の大石地区の周辺には有津を除けば未だにその地名が残っている。
「長野県町村誌」には「大石氏城跡」として、「大石組人家の西路傍の田間にあり。東西二十間(約36.4m)、南北三十間(約54.5m)、四方石塁存し、堀の形跡あり。少しく高地にして、城畑と稱し、北に外城の名あり。里老傅、大石太郎なる者、住して禰津氏の爲に滅ぶと、其傅詳ならず。長禄中(西暦1457年〜1460年)禰津宮内少輔代官岡村四郎兵衛居住す。文正(西暦1466年〜1467年)の頃岡村四郎左衛門時則あり。」とある。
「諏訪御符禮之古書」、長禄四年(西暦1460年)庚辰五月會の条には、「一 流鏑馬大石村禰津宮田(内)少弼知行代官岡村四郎兵衛俵付時家御符之禮一貫八百文使彌五郎此内本書之字依不正字悉不審」、文正二年(西暦1466年)丁亥花會の条には、「大石村御符之禮二貫三百文岡村四郎右衛門時則 使曾次二郎 頭役十貫」とあり、当時の大石村が祢津氏の代官支配を受けていた事が判る他、その代官に、岡村四郎兵衛時家、同四郎右衛門時則があった事が判る。
又、同書、文明十三年(西暦1481年)辛丑五月會明年御頭定の条には、「一 流鏑馬大田中禰津代官出澤修理亮直宗岡村彌五郎直則御符祝二貫三百使彌三郎御頭役二十二貫被申候此二貫神長方へ別而當社爲日参祈候此年禰津御中死去」、文明十九年(西暦1487年)丁未五月會明年御頭定の条には、「一 右頭禰津大田中覺直代初御符禮二貫八百代官岡村四郎兵衛門頭役本は拾貫文前宮内大輔拾貫副而二十貫御進上候神長御頭中當社へ爲日参二貫宛給候於未代可爲此分候」とあり、岡村彌五郎直則、岡村四郎兵衛門が大田中の代官を務めていた事も判る。
居館の現況は…畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。居館地の大きさは町村誌の記述にあるとおりだろうが何処を中心とすべきなのかが判らない。東側を流れる西沢川は天然の堀だろうか。但し、往時の流れが現在と同じだとは限らないだろう。ランドマークとして石塁様の高まりが見られるが、近傍の方のお話しによれば造園業社が勝手に石を積み上げたもの。又、該地にある土留めの石積みは全て後世の耕作地のもの。従って城郭遺構は完全消滅、天満宮の石祠を写真に納めて帰るのが関の山だ。
室町時代後期の祢津氏は、名実共に滋野氏嫡流家、海野氏にとっての軍事的中核にまで成長している。その所領範囲は広大だが地域の一元的支配は見られず、数多くの散在地を小県郡内に抱えていた。海野氏の一党は同族相争う事が殆ど見られない当時としては稀有な存在、これを可能としたのもその結束力が故であろう。
※同族間の結束力〜個人的に考えている事だが、この禁を破り同族間の争いを公に辞さなかったのが海野氏の後裔を自称する真田氏であったように思う。









