田口城

田口城([龍岡城  周辺城郭])

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田口城の口コミ情報

2025年10月17日 内記かすりヾ(・ε・。)


田口城(田ノ口城)は龍岡城の北東約0.7km、雨川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約897mの山陵山頂部を中心に立地する要害です。南麓の雨川からの比高は170m位でしょか。往時、該地の田口郷は佐久郡内平賀庄を構成していた一郷である。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。南麓に建つ曹洞宗の寺院、大梁山蕃松院前の市道を門前から150m位を東へ進めばお山へ入る横道が付いている。楽をしたかったら同じく位置登録がある「五稜郭展望台駐車場」を目標に設定しよう。田口城には城域の下段に龍岡城を俯瞰する展望台が設けられており、北麓から山頂部へと至る車両通行が可能な林道が付いている。この駐車場に車を捨てたら展望台へと誘導する案内板に従って進めばよい。但し、路面状況が悪い部分(基本的に林道は恒久的な整備が義務付けられていない道だ。)も多いので注意が必要となる。

築城年代は不明、築城者は田口氏です。城主には他に、阿江木(相木)系依田氏の相木能登守昌朝(武田氏時代、城代とも。)、芦田氏系依田氏の依田(芦田)右衛門佐信蕃(徳川氏時代)の名が挙げられる。ちなみにおいらは武士の意地を貫き筋をも通す信濃先方衆の暴れん坊、信蕃の事が大好き。前述した蕃松院には、天正十一年(西暦1583年)二月二十三日、アプリの登録城、岩尾城攻めの際に討死した同名の墓塔が建っている。

地味なお城なのかもしれないが城歴はそれなりに派手だ。確証は得られないが、天文九年(西暦1540年)四月上旬、板垣駿河守(信方)によって落とされた佐久郡内の城、数十城の内の一つであろう。又、天文十五年(西暦1546年)五月、武田氏は佐久郡へ出張し内山城攻めを行い、同郡への経略を再び押し進めているが、この頃にも田口城は落城の憂き目に遭っていたと考えられる。城主であった田口左近将監長能はこの際に本貫地の田口郷を逐われたのであろう。

天文十七年(西暦1548年)三月二十三日、「上田原の戦い」において武田勢が打ち敗けると、田口長能は一次的に旧領を回復したようだ。「勝山記」には、「天文十七年戌申…中略、此年ノ八月十八日ニサク(佐久郡)ノカウリノ田ノ口ト申要カイ(要害)エ、小山田出羽守(信有)殿大将トシテ、御動キ候、去程ニ信州ノ人数、甲州衆ヲコノ内ノ鳥ノヤウニ取リコメ申候ヲ、色々調義被成候而来ル、九月ノ十二日、御上意ノ御馬ヲ出タサセ御申候而、合イ力ヲ被ナリ、サクノカウリノ大将ヲ悉ク打斃ス、去程ニ打取ル首ノ数五千計、男女生取数ヲ不知、ソレヲテキワニ被成候而、甲州ノ人数ハ御馬ヲ御入候、」とあり、田ノ口の要害に攻め寄せんとした小山田出羽守が、却って信州の人数によって内山城を取り囲まれてしまったと書かれている。佐久郡における一連の騒乱は武田晴信の出馬によって凄惨な結果に終わったようだが、この際に在地土豪としての田口氏は滅亡したと考えて間違いは無いだろう。

武田氏の滅亡後、信長の横死後、城主であった阿江木系依田氏の相木能登守入道常林(相木能登守昌朝の子である。)は北条氏に同心するが、天正十年(西暦1582年)、佐久郡経略を押し進める徳川氏に与する依田信蕃が田口城に攻め寄せ、入道常林を小田原へと奔らせた。信蕃は同城の南麓(蕃松院の東隣りが推測されている。)に居館したと伝わるから田口郷が佐久郡における同名の本拠地となったと考えてよい筈だ。

主郭から西側、北側へと連なる多段の平坦地が特に目立つお城だが、該当山稜は後世に全山開墾されたらしく、昭和二十二年(西暦1947年)当時の航空写真を見ると城域の殆どは禿山であった。やはりこれ等全てを城郭遺構として判断するのは早計であろう。従って随所に見られる土留めの石積みも同様だ。明確な遺構としては、主郭の東側山側背後を断ち切る堀切と城域の東端部を構成する二重堀切であろうか。二重堀切の周囲には土塁も確認出来る。又、城域に立つと判らないが、アプリの登録城、志賀城にも似た岩盤層の露出する垂直の断崖絶壁上(落ちたら死ぬわ。)に縄張が展開している。

該地の田口郷は、古くから存在する田口峠へ通じる関門の地に当たり、田口峠道は雨川沿いを東行して山中へ入り、最終的には上野国甘楽郡へと至る。現在の群馬県道・長野県道93号、下仁田臼田線が道筋を殆ど踏襲しているが、県道が整備される以前の峠道を進む事は、旅人にとってさぞかし厳しいものであったに違いない。

※田口氏については別の機会に譲る。

※城歴はそれなりに派手〜田口城は、天文年間(西暦1532年〜1555年)に三度、天正十年に一度、合わせて四度の落城経験を持つと考えられる。

2022年09月03日 昌幸近江守更に吉


龍岡城の北の裏山にあった田口城。
室町末期に土豪田口氏が築いたのが始まりで、武田信玄の佐久侵攻に抵抗するも落城し天文17年(1548)田口氏は滅亡します。
その後は武田氏の(相木)依田能登守が治めましたが、天正壬午の乱の武田遺領に徳川家康の家臣依田信蕃が攻め込み、(相木)依田能登守は後北条氏を頼ったとされます。

本丸東方は2条の堀切で仕切り、北方と西方には曲輪が配されます。南方は石壁により登城不能の地です。
近くに上野と甲斐、それぞれへ繋がる街道があり、監視をしていたと思われます。
城内は石積みが散見しますが、ヒノキの植林が行われていたようなので、後世の土留めかも知れません。ただ曲輪の多さは当時の名残があると思います。

アクセスは志摩木工工芸さん脇の道を入り、途中砂利道を進んだら4〜5台停められる駐車場があります。駐車場が城内になります。「五稜郭展望台」と表された看板があるので迷わないかと。

【写真の説明】
①本丸石積み1
②本丸石積み2。スロープにも見える。
③本丸。祠がある。
④本丸東方堀切1
⑤本丸東方堀切2
⑥城内で一番広い曲輪。北の丸と西の丸の付け根にあたり、本丸からも見下ろせる。
⑦北の丸
⑧西の丸

2020年08月03日 龍馬備中守【大感謝】


長野県の佐久市にある田口城☆
龍岡城の真北の山中に位置します☆
龍岡城を望める展望台もココに位置します☆

このお城は田口氏の居城となります☆しかしココも武田信玄の佐久侵攻により落城しちゃいました☆「上田原の戦い」(武田信玄VS村上義清)で武田氏が撤退するとその混乱に乗り田口長能は城の奪還を図るも敗れてしまい田口氏は滅亡します☆

武田氏滅亡後は徳川家康についた依田信蕃が攻略☆本拠としました☆

このお城は熊さんが出る様です☆
7月の頭に熊さんが出たと聞いております☆行かれる方は万全の準備を整えて行かれて下さいね♪情報として入れておきます☆

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