海ノ口城(うみのくちじょう)
海ノ口城の基本情報
通称・別名
- 鳥井城
所在地
- 長野県南佐久郡南牧村海ノ口大芝
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 平賀源心?
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 平賀源心
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切
指定文化財
- 村史跡
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
龍岡城(長野県佐久市)[17.7km]
平賀城(長野県佐久市)[21.0km]
伴野城(長野県佐久市)[21.1km]
古宮城(山梨県北杜市)[21.2km]
比志城(山梨県北杜市)[21.4km]
谷戸城(山梨県北杜市)[22.4km]
深草館(山梨県北杜市)[23.5km]
志賀城(長野県佐久市)[24.3km]
獅子吼城(山梨県北杜市)[24.5km]
岩尾城(長野県佐久市)[24.9km]
海ノ口城の解説文
[引用元:Wikipedia「海ノ口城」の項目]
海ノ口城(うんのくちじょう、うみのくちじょう)は、長野県南佐久郡南牧村海ノ口にあった日本の城(山城)。「海の口城」と表記されることもある。
築城時期、廃城の時期等は不明。武田信玄初陣の地として知られる。武田氏の信濃国攻略の中継地、兵站基地であった。
沿革
天文5年(1536年)暮れ、甲斐守護武田信虎は8千の兵を率いて佐久方面に出陣。佐久平賀城主、平賀源心(玄信)入道成頼ら2千の立て籠もる海ノ口城を攻めた。36日間包囲したが海ノ口城は落ちず、冬の到来を機に信虎は兵を引き揚げた。この際、信虎の嫡男、晴信(のちの信玄)は初陣であるが、殿軍を申し出て、兵3百を率いて海ノ口城に奇襲を掛け、海ノ口城は落城した(『甲陽軍鑑』)。
天文12年(1543年)、佐久大井氏の攻略、天文15年(1546年)の内山城の攻略、天文17年(1548年)、上田原の戦い敗北後の佐久衆叛乱鎮圧、天文19年(1550年)、砥石崩れ後の村上義清の佐久再侵攻など度々武田晴信の陣所となったと言われている。
参考文献
- 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
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海ノ口城の口コミ情報
2026年07月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟻城(北城)[海ノ口城 周辺城郭]
蟻城(北城)は海ノ口城の北方約10.3km、千曲川東岸(右岸)、標高約1047.8mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根下段上、標高約894m地点の平場を中心に立地する砦です。北東麓の上諏訪社からの比高は40m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は前述した、同じく位置登録がある「上諏訪社」の東側に建つ何らかの堂跡?に捨てられる。何処からでも登ろうと思えば登れるが、城地の南側からは道が付いているので楽が出来る。
蟻城は山頂の南城を中心に西城、北城の三つが同一山稜に立地する城砦群だ。縦走する事も可能だが、時間ばかりを浪費するので個別に訪問するのが良い。特に西城と北城は山麓からの比高が低いために尚更の事だ。
築城年代、築城者は不明です。この砦については同じ海ノ口城のリア攻めマップにある南城の口コミを参照して下さい。北城はその形状、形態、縄張から、西城、南城とは築城時期、築城主体が異なると推測されている。異論を持つ人も全くいないだろう。
居館城とも推測されているんだけど居住性については疑問が残る。イカち過ぎるし狭小でもあるのだ。殿て呼ばれる領主様が居する訳が無い。せいぜい蟻城の番士の根小屋だったとするのが適当なところだ。平坦地ではない二重堀の内側の大して広くもない最高所に殿の奥方等が生活するだろうか。
武田氏や天正壬午の乱の際に徳川氏や北条氏によって改修された可能性を指摘する向きもあるが、大勢力である三氏が必要とするレベルには全くない。天正壬午の乱の際の大きな争点にもなっておらず、佐久郡南部では更に北方の田口城を巡って相木氏(阿江木系依田氏)と依田氏(芦田氏)との間(両氏は同族である。)で取り合いが行われている。
縄張は3郭で構成されており、特に主郭は、外側にL字形、内側にコの字形の、段差のある二重の空堀が巡らされている。二重堀の南辺は山尾根を断ち切る堀切を兼ね、空堀辺に付く土塁も随所に良く残っており、これ等の遺構は佐久郡の城館としては極めて異質な存在だ。高い切岸と相まって全体的な減り張りが効いており、小粒ながらもその佇まいには誰でも感動する事間違い無し。但し、後世の改変も考慮すべきであろう、L字形の空堀から伸びる2条の小竪堀は、縄張として必要とは思われない2箇所の虎口を土塁辺に形成してしまっており、耕作等のための単なる通路とも見て取れる。ちなみに地権者の方が相当な頑張り屋さんだ…城域内を南北に通る道等を付けるためにミニユンボを使って鋭意造成中…城地がこのまま良好に保存されていくのかは微妙なところ…明日にはどうなるのかも判らない事から興味を持ったら是非早めの訪問を…
蟻城城砦群の内に含まれているが、その縄張から築城時期は戦国時代の初期頃が推測出来る。その占地から当然の如く意識はされているとは思うのだが、結果的には西城や南城とは別に捉えるべき際立った存在となっている。登城は一段上がるだけ、探索も容易、ダイパに優れた好物件だ。
※平賀の内と云われる該地の崎田と伴野十二郷を構成した海瀬郷の花岡は遮るもの無く隣り合っている。単純な区割りからすれば、室町時代の一時期において、大井氏と伴野氏との境目であった事が推測出来るだろう。崎田集落の後背地に聳える河岸段丘台地上の一山稜に城砦群を築かなければならなかった理由もそこにあるのではないだろうか。
※居館城〜何の根拠も無いが、むしろ居館地は別にあったと考える(付近には、地形、水場等から導き出される適地が散見される。)。北城はこれに付随する砦ではなかったろうか。
※二重堀〜上段は土塁付きの腰郭かもしれない。
※ミニユンボを使って鋭意造成中〜もし見掛けたら気絶させるんじゃなくて、城跡をこれでもかと褒め称え、下手に出ながらそれとなく遺構を損壊しないようお願いしよう。
2026年07月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟻城(西城・半僧坊山)[海ノ口城 周辺城郭]
蟻城(西城・半僧坊山)は海ノ口城の北北西約10.3km、千曲川東岸(右岸)、標高約1047.8mの山稜山頂から北西へ伸びる尾根下段上、標高約936mの少ピークを中心に立地する砦です。西麓の舗装道路からの比高は85m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…何だけど、そのままじゃ行けないので同じく位置登録がある「崎田神社」を目標に設定しよう。車をそこら辺の空地に捨てたら南側に見える該当山尾根を適当な場所から適当に登る。ちなみにこの山尾根の直下には当地や蟻城に関わった一族の結構立派な石碑が建っている。設置者はその子孫であり、興味深い内容ではあるのだが此処では紹介しない。
蟻城は山頂の南城を中心に、西城、北城の三つが同一山稜に立地する城砦群だ。縦走する事も可能だが、時間ばかりを浪費するので個別に訪問するのがよい。特に西城と北城は山麓からの比高が低いために尚更の事だ。
縦走した前回訪問時は舐めてかかって登山系アプリの設定もしていなかったんだけど、南城からの山尾根の分岐をロストしてしまい西麓の東電調整池まで下りてしまった(中途半端な道形が残っている。)。再び城地を目指すのに相当な藪漕ぎをする羽目になったんで参考までに…
築城年代、築城者は不明です。この砦については同じ海ノ口城のリア攻めマップにある南城の口コミを参照して下さい。西城はその形状、形態、縄張等から、南城と築城時期、築城主体が同一と考えられており、南城に付随する前衛支砦であると推測されている。異論を持つ人も全くいないだろう。
縄張は3郭が推定され、他の平坦地は腰郭程度の小郭である。卵形の主郭には西辺に土塁が付き、何らかの小社が鎮座している。縄張図を見ると総計で3条の堀切が描かれているが総じて埋まり気味、はっきりとそれと判るものはこの内の2条に限定される。砦としての纏まりは大変良く、特に両側は急峻、単独で見ればプアーなのかもしれないが、南城の前哨としては十分過ぎる程の存在感だ。
本城の南城は明らかに北向きの縄張だが、その北西尾根下段に占地する西城は更にこれを補完している。何故であろうか、絶好のロケーションにありながら甲斐国との境目の方に背を向けている。
室町時代中後期の佐久郡の二大勢力にあったのは大井氏と伴野氏であったが、両者間の支配領域は単純に千曲川を以て二分されていない。単純に言えば、当地の領主層がはっきりとせず、蟻城の築城者の推測はおろか、城砦群を形成しながらも何に対する備えなのかさえ定まらないのもそれが理由だと考える。
日本の中世は武士の時代であり、各地の大小諸勢力は幕府に公然と背くような事はしなかったが、自らの権益確保、勢力拡大には敏感であり、これ等を求めての近隣との争いが絶える事は決して無かった。元を辿れば甲斐源氏の同族とはいえ、大井氏と伴野氏との間にもそれが当てはまる。文明八年(西暦1476年)から両者間での争いが始まり、当初、その目的とするところは、大井氏による佐久郡の一円支配にあったように思われる。従って、その時々の支配領域にも変遷があり、この時期における佐久郡やその周辺地域の様相が容易に見えて来ない。
凄く漠然としているが個人的には、蟻城は南北朝時代の築城ではなかったかと推測している。それが室町時代における佐久郡の騒乱によって再び取り立てられ、該地の領主層等によって、武田氏による佐久郡経略までの間、維持され続けて来た…等と考えている。伴野庄内における、伴野城のリア攻めマップにある、荒城、荒山城、前山城が、文明年間(西暦1469年〜1487年)の築城と推測されている事と決して無縁ではあるまい。
2026年06月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟻城(南城)[海ノ口城 周辺城郭]
蟻城(南城)は海ノ口城の北北西約9.7km、千曲川東岸(右岸)、標高約1047.8mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の東電調整池からの比高は220m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。山頂付近まで車で登れる林道が南麓の稲荷神社付近から付いており車を捨てられる空地もある。後は徒歩で少し登るだけだ。
蟻城は山頂部の南城を中心に、西城、北城の三つが同一山稜に立地する城砦群だ。縦走する事も可能だが、時間ばかりを浪費するので個別に訪問するのが良い。前回訪問時は、北城、南城、西城の順に縦走したが、北麓からの林道が激藪と化し既に消滅(進めない…)している。尾根筋に戻るために急峻な斜面を直登したり、南城から西城への山尾根の分岐(非常に判り難い。)を間違えたりして大変な目に遭ってしまった。しなくてよい苦労はするもんじゃない。
築城年代、築城者は不明です。昭和十年(西暦1935年)に旧南佐久教育委員会の調査によって存在が確認されており、城跡に関する伝承等が一切残っていなかった。又、木曽義仲四天王の一人、樋口次郎兼光が、義仲の実父、義賢の旧跡、上野国多胡庄や諏訪郡との連絡を図るために両地へ通じる該地に住し、在城したとの説も存在するが特に根拠がある訳ではない。但し、義仲が郎党を各地の交通の要衝に置いたとする伝承は数多く残されており、在城はともかく、僅かな期間とはいえ城地の周辺に住した可能性だけは捨て切れまい。
「長野県町村誌」、穂積村の項によれば、該地の穴原は、平賀庄に属していた崎田に含まれる地域であり、築城者には大井氏の御親類衆、平賀氏が推測出来るかもしれない。北接する海瀬郷は、伴野庄を構成した十二郷の内の一つであり、伴野氏の差配する所であったようだから、その発生はともかく、龍岡城のリア攻めマップにある花岡城等への備えとして平賀氏が普請に及んだ事は十分に考えられる。
城地の西麓には、上州へと出張する武田勢が頻繁に利用した軍道、信玄道が南北に通っている。それ以前からの道押さえの要害がその発生であると考えられるが、その規模からして後の武田氏が必要とするならば、既に狼煙台の役目しか残されていなかったろう。
縄張は4郭が推定され、他の平坦地は腰郭程度の小郭である。城域内の下段を前述した林道がぐるりと巡らされているが、主要部となる山頂部と山頂から派生する東尾根と北尾根は往時の形状がよく保たれている、縄張図を見ると、総計4条の堀切、1条の竪堀、主郭と要所に土塁が描かれているが、堀切は総じて埋まり気味、それと判らないものもあり、竪堀も城郭遺構とは違うように思われる。ちなみに主郭からの南西尾根には長野県防災行政無線八千穂中継所の送受信用アンテナが建っている。中継するのは無線波だが、そのロケーションを活かして今も何事かを周囲に報せている訳だ。
前述した穂積村は、南佐久郡佐久穂町の一地域となっているが、かつての村を構成していた集落の一つに「樋口」があり、現在は佐久穂町天神町の一地区としてその名を残している。地名はその字のとおり水の出口等を意味し、全国的にもよく見られる字名だ。地名の所にはそれ故に樋口次郎兼光に託けた伝承がよく見られ、長野県では上伊那郡辰野町樋口にも兼光の遺児が城館を構えたという伝承が残っている。何れにせよ、卵が先か鶏が先かの話にはなってしまうのだが、これ等に共通する点は裏付けが取れず事実として受け入れ難い面があるという事…兼光の舎弟、今井四郎兼平に関わる伝承にも同様の事が言える。
※今井四郎兼平に関わる伝承〜「今井」の地名も全国的によく見られる。地名を元とした伝承の数からすれば「樋口」よりも遥かに多い。
※新緑も過ぎた季節に申し訳ないんだけど、3月末日の訪問…賞味期限は超えていないて信じてるwちなみにおいら、口コミは1日1件て勝手に決めている。みんなが使う板だからね。現在も下書きには10件が出待ちで眠ってる。そんなこんなで900件近い物件が口コミを書く事も無く消費期限が切れた事によって記憶の彼方に消し飛んでるw
2026年04月22日 ᴿᴱᴰ副将軍
蟻城(北城)[海ノ口城 周辺城郭]
コンパクトながらも二重横堀が見事な名城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代等の城史は史料等がなく不詳。
現地案内板では「木曽義仲が、父である源義賢がかつて居住していた多胡庄に近いこの地に樋口兼光を派遣し、楯氏、矢田氏の協力を得て西上州における武士団の結集を図ったと思われる」とあります。
北城のほかにも南城、西城もある広大な城跡であり、残存する遺構の縄張りからは戦国期のものと思われます。
武田氏が上州に侵攻する際に改修したものか、または1582年の天正壬後の乱の際に徳川氏または北条氏が改修したものと思われます。
見所
山頂に南城、西には西城がある一城別郭の広大な城郭です。
但し、北城は南城、西城と比べて土木量が大きく、技巧的であり時代も新しいと感じます。
南北に連なる三つの郭で構成され、各郭は広く居住性が高い空間です。
最高所の主郭は南側に土塁が敷設され、その背後は二重堀切で遮断。
主郭の北側に二郭、三郭が連なり、それぞれ高さのある段差で区切られています。
主郭と二郭の西側は二重の横堀が巡り、主郭背後の堀切端部へと繋がっています。
2025年11月27日 気分爽快大蔵卿
海ノ口城
林道先の駐車場まで進めば、比高150m程度なので、迷わず進みましたが、未舗装林道なので車の腹をだいぶ擦りました。
規模の小さな堀切をすぎると主郭に到達します。主郭の先には見どころの岩盤堀切があり、岩盤の上に東屋がのっていました。その先の尾根にある浅い堀切二つを確認し引き返しました。
①鳥井峠から最初の堀切
②二つ目の堀切
③②堀切先の郭
④2郭から八ヶ岳を望む
⑤東屋の先には大堀切
⑥大堀切から岩盤上の東屋を見上げる
⑦微妙な深さの堀切
⑧最後の堀切は更に浅い
2025年06月27日 がっくん
海ノ口城
南牧村役場でゼンリン地図出されて説明受けたので迷わず登城口まで行くことが出来た。車は登城口付近に十分スペースがあったので、そこに路駐。 そこから主郭まで35分程度。数ヶ所に海ノ口城の道標があり迷わず行ける。主郭からは八ヶ岳連峰を望むことが出来る。この主郭の反対側に最大の見所の東堀切がある。堀切を越えて尾根伝いに50m程行った最高峰がリア攻めマークの位置であった。この途中にも堀切があったが浅くなっていて、説明板に記載があった土塁は分からなかった。
武田晴信の初陣を飾った舞台である城であるが、説明板によると、この合戦を疑問視する専門家もいるとのこと。ま、そう言われたら身も蓋もないが、虚を衝いてここを駆け上がったであろうと若き晴信に思いを馳せてみたら楽しいものだ。
2023年07月18日 ClaD東北遠征準備中務卿
蟻城(北城)[海ノ口城 周辺城郭]
見事な二重横堀でマニアに知られる城です。(36.1302, 138.4851)あたりから山のほうを目指すとすぐに横堀が見えてきます。
2022年04月12日 sigesige主税頭信繁
海ノ口城
国道141号海ノ口駅から一番近い橋で川を渡り直ぐ左、100m程で右、直ぐに小さな海ノ口城入り口看板あり。そこを左折して駐車場まで行けるのですが、直ぐの所にお墓がありその前に軽トラが駐車していて進まなかったので入り口まで戻り路駐して徒歩で登城しました。
登城路はある程度整備されており迷うことなく主郭跡まで30〜45分程で行けます。
2022年04月04日 ️…
平賀源心胴塚[海ノ口城 その他]
武田晴信の初陣で引き立て役になってしまった平賀源心の胴塚です🙏
現在のR141から外れた平沢古道沿いにひっそりと築かれています😌
〜以下、石碑より〜
平資源心胴塚
歴史及び伝説
海ノ口城主・平賀源心成瀬は天文5年(1536年)12月28日に武田晴信の奇襲に遭い戦死した。
不落を誇り武田氏を悩ませた海ノ口城は信玄16歳の初陣の手柄により遂に落城し、源心の遺骸がこの場所に埋められていると伝えられている。
また、甲斐国史の古墳の部には平賀源心の正覚寺に牌立す、元信院求堅大居士とあり。
山梨県若神子の路傍に平賀源心の墓がある。
伝説によれば首実験のために首だけ持ち帰り若神子に葬り、胴はこの地に埋めたと 言う。
高さ約1メートル直径約4メートル位の築山は、何万個という石が旅人により供えられている。
平成元年4月南牧村百周年記念
2021年11月28日 【うっかり】赤かぶ
本間城[海ノ口城 周辺城郭]
本間城は小海町千代里にある山城です!このお城に関しての記録はないようで、立地からして、武田氏の軍道の警備に当った砦として狼煙のつなぎ及び軍の警備に使われた線が高いようです。
行き方ですがGoogleマップで本間十二社を目指すと良いと思います。十二社の裏手にある山の尾根上に城郭があります。国道141号から少し入った所です。
登路は北の尾根先から尾根伝いに登るしかないようです。
本間十二社を右へ尾根の先端に進むと左側の藪の中に鉄製の階段があります、これが登城口になります!ほんと藪の中なんで良く見ないと見過ごしてしまいますのでご注意をw
階段の反対側には会社の建物があります。鉄製の階段を登りきると今度は斜面に取り付けられた不揃いの階段を登って行きます、その後は急斜面を上がり細い尾根筋を南に進みます。
堀切・曲輪
主郭は土塁で囲まれており、背後には3条の堀切があります。主郭の南側土塁には土留めでしょか僅かな石積みが薮の中に埋もれておりました!当時の物かは分かりません……。
城域全体は薮に被われており遺構が見ずらくなっております。訪れる際には足元の装備はしっかりとして、武田氏関連のお城を訪ねてみてはいかがでしょうか!!
① 本間十二社
② 登城口の階段
③ 城郭北側の堀切
④ 主郭北側の土塁
⑤ 主郭
⑥ 主郭南側の埋もれた石積み
⑦ 城郭南側の堀切
2021年10月26日 【うっかり】赤かぶ
松原城[海ノ口城 周辺城郭]
松原城は観光名所松原湖の北側にある城跡です!
築城年数は不明ですが、武田信昌が佐久に侵入し、村上氏と甲州勢が争い始めた戦国時代中期に、この地域の小さな領主だった松原氏が、武田・村上勢が侵攻して来た時に身を潜めた山城とされているそうです。(説明板抜粋)
観光地と言う事もあり駐車場(無料)があります。駐車場から松原湖を眺めながら登城口へと向かって行きます。登城口の目印として鳥居と説明板がありますので分かりやすいと思います。階段を上がり坂道を登って行きます。
登ってしばらくすると堀切が見えます。堀切を経て尾根を上り切ると主郭です!主郭には小規模な土塁が残っています♬︎さらに西側へ進んで行くと堀切2条と曲輪が構成されていました♬︎城の西端 尾根の最高地点の曲輪は見張り台とされており。今は浅間社の祠が祀ってあります。
城全体は遊歩道っぽくなっているので比較的歩きやすいですが、結構なアップダウンがありますので足元はしっかりとした方が良いです!所々に案内標識も設置してありました。
おまけ:城の麓には「北風小僧の寒太郎」の歌碑があります!ボタンを押すと歌が流れます♪歌っているのは望月東庵(堺正章氏)ではありませんw興味のある方はポッチとしてみてください!
① 登城口説明板
② 主郭
③ 主郭の土塁
④ 主郭西側1条目の堀底
⑤ 主郭西側1条目の堀切
⑥ 主郭西側2条目の堀切
⑦ 見張り台とされている曲輪
2021年09月21日 mootze
海ノ口城
お城登り口の駐車場は、四駆でないと、行けないので道路脇のチョットした、スペースに停めていきました。本郭までの道は、傾斜が、きつくなっている所が、あります、約30分くらいで、つきます説明板や石碑、巨岩が、あり、あづま屋で、休憩すると、さわやかな風が通り、疲れを忘れさせます。また堀切も絶壁で、これぞ、山城の防御力を感じます、
2021年02月13日 【うっかり】赤かぶ
海尻城[海ノ口城 周辺城郭]
海ノ口城から佐久方面へ約4km行った天台宗のお寺 医王院さんの横手にあるお城です!
国道141号線沿いにあるので分かりやすいと思います。
車はお寺の駐車場orすぐ近くの郵便局の広い駐車場に停める事が出来ますよ。
登り口は境内の鐘楼の手前に冠木門が建っていますので、そこから登城してください!
主郭まではしっかりと整備されており登りやすいかと思います♪
主郭へ行く途中の東端に郭が配置されてました!
登りきると三の郭に着きます、三の郭には東屋が建っており、休憩するにはベストかも!!
主郭には愛宕権現と城址碑があります
主郭西側には僅かながらプチ土塁も確認する事が出来ました。
主郭背後には堀切♬︎ですが!この先は全く整備されておりません(涙)
伸びきった枝が行く手を阻み、足場の悪い尾根道を西へ西へと進みます!
アップ・ダウンをくり返し四の郭を経て五の郭へと続いて行きます。
城郭西端には小規模な堀切が見られます。
海尻城は海尻城の合戦の後、武田氏が信濃侵攻の前線基地となったお城です!
国道から簡単にアクセス出来ます!麓の医王院さんも趣きのあるお寺なので是非ご一緒に☀︎
① 城郭東端の郭
② 東端の郭より主郭を仰ぎみる
③ 主郭
④ 主郭西側の土塁
⑤ 主郭背後の堀切
⑥ 城郭西端の堀切
⑦ 登城口
2021年02月11日 【うっかり】赤かぶ
火燈城[海ノ口城 周辺城郭]
行き方は南相木村の観光名所 御三甕(おみか)の滝を目的地にして下さい。
滝は山間部にあり、その山にお城が築かれております。
御三甕の滝には悲しい伝説があるそうです。気になる方はググってみて下さいませ!
駐車場は滝の駐車場を利用して下さい。滝の上(小学校の向かい)と滝の下の2ヶ所あります。
滝の上駐車場から滝まではかなりの急勾配を降りて行きます。
足元も悪く枯葉で滑り落ちそうな感じで結構恐怖です!!更に積雪があるともう最悪です…
自信のない方は下の駐車場の方がまだ良いかと思います。道は狭いのですが…
滝はなかなか迫力があり、岩をくり抜いたトンネルの中からも滝を見れたりして目を楽しませてくれますよ♪
登城口は滝つぼから流れる川の上の橋を渡り目の前の急斜面を登って行く感じです。
登城道の途中途中に柵。郭にはベンチがあり迷う事なく主郭までは行けます!
登城口から主郭までは約15分ほどでしょうか!
主郭には物見櫓が建てられており、登って景色を見る事が出来ますが、木々が多くあまり眺望はよくありません⤵︎
背後には堀切が2条ありますが小規模なものになっております。
ここは相木氏が武田氏の侵攻に備えて築いた砦の1つであったという説・ただの狼煙台という説とあります。
滝や川が天然の堀だったのか?!とか色々妄想しながら歩くのも楽しいですよね♬︎
観光名所の滝と併せて訪れるのも良いかもしれません☀︎
① 御三甕の滝
② 主郭の物見櫓
③ 主郭直後の
④ 2条目の堀切
⑤ 登城口
2017年11月06日 OROKA中務卿
海ノ口城
【道案内】
国道141号沿いに「海野口城」の看板があるのでそこで国道からわき道にそれます。しかし、山梨方面からでは看板は見えませんf(^_^;
しばらく案内に従って集落内を進むと、小型車しか通れなさそうな狭い林道に入ります。運転に自信のない方はこのあたりから歩きましょう。
ガタガタの林道をしばし進むと突き当たりに「P」があり数台分の駐車スペースがあります。看板というかプレートに「ここから30分」と書いてあります。
案内に従って山を登りますが、とにかく傾斜がキツい!ほぼ遺構のないまま進み続け尾根に出ると「→海野口城」のプレートがあるので、さらに登るとやっと城域がありました。
【感想】
数段の段郭と虎口らしきものがありました。また、主郭には城址碑と大きな岩、ボロボロのあずま屋が岩の上に建っていて、背後には大堀切があります。この大堀切が一番の見所でしょうか。また大堀切の向こうの尾根には小さい堀切が二条ほどあるようです。
正直、思った以上に狭い詰め城でした。信玄初陣の城との事ですが。どれだけ兵がこもれたのかな…
訪城の際は、それなりの覚悟で。
2016年09月25日 前後北条安房守ぷいちー
海ノ口城
R141沿いに、入り口の案内の小さい看板がありました
2015年11月07日 いさん
海ノ口城
2台くらいは停められそうな駐車場あり
海ノ口城の周辺スポット情報
相木城 城跡碑(碑・説明板)
蟻城説明板(碑・説明板)
海尻城発掘調査説明板(碑・説明板)
火燈城(周辺城郭)
海尻城(周辺城郭)
松原城(周辺城郭)
本間城(周辺城郭)
蟻城(北城)(周辺城郭)
大遠火(周辺城郭)
遠見(周辺城郭)
平沢城(うえんだ)(周辺城郭)
広瀬城(城山)(周辺城郭)
信州峠筋の狼煙台(大蔵峠の山)(周辺城郭)
信州峠筋の狼煙台(藤塚)(周辺城郭)
小海原狼煙台(周辺城郭)
旗立台(周辺城郭)
稲子の古城(周辺城郭)
根小屋烽火台(すだて城)(周辺城郭)
根小屋烽火台(すだて城)(周辺城郭)
宮の上(周辺城郭)
岩鼻の砦(周辺城郭)
本間下の城(じょう)(周辺城郭)
見張城(周辺城郭)
峰尾城(周辺城郭)
丸山(周辺城郭)
相木城(天神山砦)(周辺城郭)
相木城(丸岩城)(周辺城郭)
大石川烽火台(周辺城郭)
馬越城(周辺城郭)
通城(石堂城)(周辺城郭)
蟻城(南城)(周辺城郭)
蟻城(西城・半僧坊山)(周辺城郭)
相木城(周辺城郭)
海ノ口城駐車場(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
平賀源心胴塚(その他)
蟻城西城登城口(その他)









