蟻城(南城)
蟻城(南城)([海ノ口城 周辺城郭])
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蟻城(南城)の口コミ情報
2026年06月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟻城(南城)は海ノ口城の北北西約9.7km、千曲川東岸(右岸)、標高約1047.8mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の東電調整池からの比高は220m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。山頂付近まで車で登れる林道が南麓の稲荷神社付近から付いており車を捨てられる空地もある。後は徒歩で少し登るだけだ。
蟻城は山頂部の南城を中心に、西城、北城の三つが同一山稜に立地する城砦群だ。縦走する事も可能だが、時間ばかりを浪費するので個別に訪問するのが良い。前回訪問時は、北城、南城、西城の順に縦走したが、北麓からの林道が激藪と化し既に消滅(進めない…)している。尾根筋に戻るために急峻な斜面を直登したり、南城から西城への山尾根の分岐(非常に判り難い。)を間違えたりして大変な目に遭ってしまった。しなくてよい苦労はするもんじゃない。
築城年代、築城者は不明です。昭和十年(西暦1935年)に旧南佐久教育委員会の調査によって存在が確認されており、城跡に関する伝承等が一切残っていなかった。又、木曽義仲四天王の一人、樋口次郎兼光が、義仲の実父、義賢の旧跡、上野国多胡庄や諏訪郡との連絡を図るために両地へ通じる該地に住し、在城したとの説も存在するが特に根拠がある訳ではない。但し、義仲が郎党を各地の交通の要衝に置いたとする伝承は数多く残されており、在城はともかく、僅かな期間とはいえ城地の周辺に住した可能性だけは捨て切れまい。
「長野県町村誌」、穂積村の項によれば、該地の穴原は、平賀庄に属していた崎田に含まれる地域であり、築城者には大井氏の御親類衆、平賀氏が推測出来るかもしれない。北接する海瀬郷は、伴野庄を構成した十二郷の内の一つであり、伴野氏の差配する所であったようだから、その発生はともかく、龍岡城のリア攻めマップにある花岡城等への備えとして平賀氏が普請に及んだ事は十分に考えられる。
城地の西麓には、上州へと出張する武田勢が頻繁に利用した軍道、信玄道が南北に通っている。それ以前からの道押さえの要害がその発生であると考えられるが、その規模からして後の武田氏が必要とするならば、既に狼煙台の役目しか残されていなかったろう。
縄張は4郭が推定され、他の平坦地は腰郭程度の小郭である。城域内の下段を前述した林道がぐるりと巡らされているが、主要部となる山頂部と山頂から派生する東尾根と北尾根は往時の形状がよく保たれている、縄張図を見ると、総計4条の堀切、1条の竪堀、主郭と要所に土塁が描かれているが、堀切は総じて埋まり気味、それと判らないものもあり、竪堀も城郭遺構とは違うように思われる。ちなみに主郭からの南西尾根には長野県防災行政無線八千穂中継所の送受信用アンテナが建っている。中継するのは無線波だが、そのロケーションを活かして今も何事かを周囲に報せている訳だ。
前述した穂積村は、南佐久郡佐久穂町の一地域となっているが、かつての村を構成していた集落の一つに「樋口」があり、現在は佐久穂町天神町の一地区としてその名を残している。地名はその字のとおり水の出口等を意味し、全国的にもよく見られる字名だ。地名の所にはそれ故に樋口次郎兼光に託けた伝承がよく見られ、長野県では上伊那郡辰野町樋口にも兼光の遺児が城館を構えたという伝承が残っている。何れにせよ、卵が先か鶏が先かの話にはなってしまうのだが、これ等に共通する点は裏付けが取れず事実として受け入れ難い面があるという事…兼光の舎弟、今井四郎兼平に関わる伝承にも同様の事が言える。
※今井四郎兼平に関わる伝承〜「今井」の地名も全国的によく見られる。地名を元とした伝承の数からすれば「樋口」よりも遥かに多い。
※新緑も過ぎた季節に申し訳ないんだけど、3月末日の訪問…賞味期限は超えていないて信じてるwちなみにおいら、口コミは1日1件て勝手に決めている。みんなが使う板だからね。現在も下書きには10件が出待ちで眠ってる。そんなこんなで900件近い物件が口コミを書く事も無く消費期限が切れた事によって記憶の彼方に消し飛んでるw









