獅子吼城(ししくじょう)
獅子吼城の基本情報
通称・別名
- 江草城、江草小屋
所在地
- 山梨県北杜市須玉町江草
旧国名
- 甲斐国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 江草信康?
築城年
- 不明
主な改修者
- 後北条氏
主な城主
- 江草氏、後北条氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、竪堀
指定文化財
- 市史跡(獅子吼城址)
再建造物
- 烽火台、説明板
周辺の城
-
比志城(山梨県北杜市)[3.8km]
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獅子吼城の解説文
獅子吼城の口コミ情報
2024年05月14日 今孔明ユーチューバー
獅子吼城
天正壬午の乱で北条軍の陣城です。岩が多くあり、道も整備され、テープの目印もあり、歩きやすいです。ただ登りではこの一般的なルートではなく、ケヤキのところで登城口(写真)を見つけ登りました。途中、道を失い、途中、直登しました😀最後の岩群はすごかったです✨本丸からの見晴らしはよく、若神子城も見えました。
2022年05月30日 Maru姫22
獅子吼城
神社に車を止めて道なりに歩いて行くと登城口がありました。登ると石積みが見られます。壊れてるところのほうが多かったですけどね。
2022年05月29日 mootze
獅子吼城
本丸跡が天然石と加工石を混ぜて、巧みに配置していた感じがありますが破却されています、でも景色がきれいで甲斐駒ヶ岳が見えます。
2017年04月23日 フー甲斐守
獅子吼城
従来の登城口は私有地の為通行止めになってます。新たな登城口は従来の登城口の山を挟んで反対側にありますが、所用時間は3倍(30分位)かかります。
従来の登城口に新たな登城口の位置を書いた地図がありますので、ご参考に。
新たな登城口も道無き道をピンクのリボンを目印に進む感じなんで、足元等しっかり準備される事をお勧めします(^o^)
2011年08月06日 ️_
獅子吼城
の画像をアップしてありますが、これは獅子吠城の主郭から見える甲斐駒ヶ岳です
馬の形に雪形が残ることから名付けられた名峰を主郭から眺めながら、武田騎馬隊に想いを馳せるのもオツなものですよ
立地
塩川左岸の独立峰に立地し、茅ヶ岳山麓から塩川沿いを北上する穂坂路(小尾街道)の要衝に位置している。塩川に面した西側山裾には根古屋集落が形成され、周辺には「駒ヶ入」「堀」「西の御所」等の地名がみられる。本城跡から南西方向に中尾城(須玉町)、若神子城(同町)、北に大渡の烽火台(同町)を望むことができる。標高は793m、根古屋集落との比高は150mである。歴史
「甲陽日記」永正6年(1509)の条に、「十月廿三日、小尾弥十郎江草城ヲ乗取」とみえるのが初見で、「江草城」とは当城のことを指していると思われる。小尾弥十郎がいかなる人物か不明であるが、小尾郷は信州峠近くの甲信国境地域にあり、戦国期には小尾氏を中心とした小尾党が信州峠川上口の警固についていたとされる。「甲陽日記」の記事は小尾氏の一族であった弥十郎が、信州方に与して武田方の江草城を乗取ったとも考えられる。
戦国期以前の当城に関して「甲斐国志」四七、「獅子吼ノ城墟」の項は、応永年間(1394~1482)に武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したことを伝え、嘉永6年(1853)の「巨摩郡江草村諸色明細帳」ではそれ以前の城主を志田小太郎実高とし、「寺記」三〇の見性寺(須玉町江草)の由緒には元応2年(1320)に信田小左衛門実正と子息小太郎実高が「獅子頭ノ城」で討死したことが記される。「獅子頭ノ城」とは当城のことであろう。当城主とされる江草兵庫助信泰は二十五歳で没しており、今井氏がその跡を継いでいる。
今井氏は、逸見殿あるいは浦殿とも呼ばれ、享禄4年(1531)今井信元の代に有力国人層の栗原氏と大井氏らとともに謀反を起こし、諏訪氏と結託し武田信虎に反旗を翻した。この反乱で今井信元は享禄5年(天文元年)に「浦ノ城」にこもったが信虎に降伏し、これにより甲斐国内は平定されるところとなった(「勝山記」ほか)。
信元の拠った「浦ノ城」とは一般的に須玉町小倉の中尾城のこととされるが、当城とする見方もある。天正10年(1582)の天正壬午の戦いでは、信州峠を越えて侵攻してきた北条勢が街道の抑えとして「江草小屋」に拠ったが、徳川方の服部半蔵正成の伊賀組や武田遺臣の津金衆らがこれを攻めて乗っ取っている(「武徳編年集成」ほか)。「国志」は天正壬午の戦いに関する諸記録にみられる「江草小屋」を当城のこととしており定説となっている。
調査等
「国志」は遺構に関しては詳しくないが、「甲斐国古城跡誌」では「巨摩郡江草村ノ内城跡壱ヶ所、但獅子ヶ城ト申伝候、壱町四方ト相見へ候、四方ニ土手堀ノ形有之候」と、およそ100m四方の規模と土塁や堀の存在を伝えている。遺構は円錐形を呈する城山山頂の主郭を中心に南西方向と北東方向の山裾にかけてみられ、何段かの腰郭を配し築かれている。山頂の主郭部分はほぼ東西20m、南北30mの不整な楕円形の平坦地となっており、東側には土塁があり北東側は虎口状に開口した石積みによる平場が続く。主郭の一段下には帯郭が巡っている。西南側の山腹には削平された腰郭が五段程あり、北東側山腹には石積みの施された腰郭が四段程造られ、その北方には何段かの腰郭が山裾にかけてみられる。
東側山腹から東方へ延びる尾根の付け根には、石積みによって区画された門跡の山川は空堀状の窪地(横堀)が北側の腰郭にかけて続く。尾根上には二つの平坦地があり、周囲には堀切や竪堀がみられる。山頂の主郭至る道筋は山腹を北側から東へ巡り門跡を抜けて横堀を通り、北東側山腹の腰郭を経由している。随所にみられる石積みは天正壬午の戦いの折の改修によるものであろう。
現状
市の史跡に指定されており、地元住民により整備・管理されている。アクセス
・JR中央本線韮崎駅下車、山交タウンコーチ増富温泉郷線「平」下車、徒歩約20分