若神子城(わかみこじょう)
若神子城の基本情報
通称・別名
- 若神子古城
所在地
- 山梨県北杜市須玉町若神子
旧国名
- 甲斐国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 新羅三郎義光?
築城年
- 平安時代後期?
主な改修者
- -
主な城主
- 武田氏、後北条氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(若神子城趾)
再建造物
- 烽火台、説明板
周辺の城
-
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若神子城の解説文
若神子城の口コミ情報
2017年08月16日 まるき〜陸奥守
若神子城
完全に公園化されてしまっていてガッカリ…
保存されている薬研堀も浅くてとても残念な感じ
リアルな烽火台(狼煙台)が設置してあるのは雰囲気があるが手入れされていないらしく危険なのかして立ち入り禁止…。
何故か近所のおもちゃ屋さんに入って話を聞いてみたら、歴史ある城跡を公園化、煉瓦敷きにしてしまって大変な問題になっているとの事。
何処で問題になっているのかは知らないが、やはり城跡の遺構を簡単に埋めて公園化されてしまっては城ファンとしても『残念』としか言いようがない…。
2017年05月16日 さく124S宮内卿
若神子城
名前に惹かれて来ましたが現在は公園に
なっています。公園は細長いこじんまりした曲輪で薬研堀以外は遺構は見つからないかな?
その薬研堀ですが薬研というよりかは
他の方も言われているように畝堀って
感じです。それも浅いので拍子抜け
します。
新羅三郎義光の名前で少しワクワク
しましたが、見晴らしの良い高いところにある公園です。
2015年12月31日 釧路守きこりん
若神子城
公園として整備されている古城の北に北城があり、こちらの方が多く遺構を残ります。
天正壬午の乱時、北条氏直の大軍が若神子に布陣しましたが、北城には、大軍が籠められそうな異様にだだっ広い平坦地があります。全体的に軽度の藪ですが、北辺に大きな土塁が残り、西辺にかすかながら土塁と帯郭状地形、南辺に虎口を伴う土塁が認められます。
行き方は、R141(清里ライン)の、クラブVerdeというテニスリゾートホテル(?)の緑色の目立つ看板があるところを入り、道なり行き、舗装路の終点から狭い土道に進んでいくと、すぐに北辺の大きな土塁が見えます。
2012年05月03日 三河守コーキしゃん
若神子城
ふるさと公園として整備されていて専用駐車場がありますが17時に門が閉まります。小さいけど薬研掘がありました♪
須玉川右岸の段丘上に立地する。西川と鯨沢にはさまれた尾根の先端に築かれた城郭を大城(古城)と称し、川をはさんで北にある張り出した尾根上の一画を北城、沢の南尾根上の一画を南城と呼ぶ。東から南方面にかけて眺望がよく、北東には獅子吼城(須玉町)、南には大豆生田砦(同町)と七里岩台地上が見渡せる。標高は北城が606m、大城(古城)が580m、南城611mである。
東側山裾には佐久往還が通り、城跡と須玉川の間に若神子の街か形成されている。城跡との比高は約80mである。若神子には「御所村」・「御所村北」・「御所前」の地名があり居館の存在が推測され、北に位置する穴平には市にかかわる二日市場の地名が残る。街の小字には「上宿」・「中町」・「下宿」などの宿地名がみられ上本戸と呼ばれる地には土塁が確認できる。
【歴史】
若神子は佐久往還と「棒道」(大門嶺口)が通る逸見筋の交通の要衝で、「甲斐国志」四七、「若神子」の項は「四達要枢今モ此筋ノ都会ナリ」と表現している。戦国期には天文11年(1543)の武田信玄の諏訪侵攻に際して「若神子御陳所」が取り立てられており、以後武田氏の信濃攻略への道筋にはたびたび若神子が利用されている(「甲陽日記」)。
同地は駐屯地・兵站基地として機能していたものと思われる。築城に関わる直接的な史料はみられないが、「国志」は新羅三郎義光の城跡との伝承を載せ、「太郎信義ノ時二及ンデ東鑑二逸見山ノ館ト記スルモ居城ノ趣ニ聞エタリ、谷戸ハ要害ノ城壁ニテ居館ハ此処ナラン」と、治承4年(1180)平氏追討に甲斐源氏が結集した「逸見山」に触れ、谷戸城(北巨摩郡大泉村)を要害とし当城を居館に比定している。天正10年(1582)の天正壬午の戦いでは北条氏直の本陣として当城は取り立てられ、「国志」には「天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居エシ処ナリ」、「武徳編年集成」には八月七日に「氏直方兵ヲ収メ若神子ニ張翼ス」と記載される。
【調査等】
「国志」は三箇所の旧塁と広い郭と土塁・堀といった遺構を伝え、天正壬午の戦いに際して北条氏によって改修されたと推定している。
北城は、東西100m、南北400mの規模があり、北端に台地を横切るように空堀と土塁が設けられる。西側には腰郭と土塁、南端には土塁と虎口があり遺構のみられない東側を道が通っている。土塁等に囲まれた内部は、何段かの平坦地が続く広大な郭となっている。発掘調査が行われた空堀北側からは南北方向の溝と柵列が確認されている。
大城(古城)は、明治時代に壁土の採取場所となったため遺構の残りは悪く、南半部に台地を切断する空堀や土塁状の高まり、腰郭などが確認されていた。公園整備にともない発掘調査が行われ、中央部分で薬研堀、東側では四角に並ぶ柱穴が確認された。中世の遺物としてはかわらけが出土している。 南城は、土橋を有する空堀によって区画された二つの郭が山頂部にあったとされるが、1982年に土採取によって消滅した。現状では、北東から東側にかけて腰郭・竪堀がみられる。土採取場所から常滑焼甕破片や茶臼升などが出土している。
若神子城の3個所の遺構はそれぞれに特徴をもっており、北条軍の本陣や蜂火台といった見方がなされているが、その判断は難しい。
当城は交通の要衝である若神子の防衛と抑えの城で若神子の駐屯地としての性格から宿城的な側面をもっていた可能性もある。さらに軍事的情報伝達の拠点、甲斐加し信濃への中継地に、位置する要所等々いくつかの磯能を有していたとみられ、最終的には「国志」に、「天正壬午ノ時北条氏旧塁二拠テ陣取増築セシコトナルベシ」と記されるように、天正壬午の戦いにおける北条氏の本陣として経営されたと思われる。
【現状】
大城(古城)は、市の史跡に指定され、現在は一部がふるさと公園として整備されている。北城は山林、南城は土砂採取により消滅している。
【アクセス】
JR中央本線韮崎駅下車、山交タウンコーチ増富温泉郷線「須玉郵便局前」下車、徒歩約10分
情報提供:北杜市教育委員会