若神子城(わかみこじょう)
若神子城の基本情報
通称・別名
- 若神子古城
所在地
- 山梨県北杜市須玉町若神子
旧国名
- 甲斐国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 新羅三郎義光?
築城年
- 平安時代後期?
主な改修者
- -
主な城主
- 武田氏、後北条氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(若神子城趾)
再建造物
- 烽火台、説明板
周辺の城
-
能見城(山梨県韮崎市)[4.8km]
獅子吼城(山梨県北杜市)[5.0km]
新府城(山梨県韮崎市)[6.5km]
深草館(山梨県北杜市)[6.6km]
古宮城(山梨県北杜市)[6.8km]
日ノ出城(山梨県韮崎市)[7.4km]
谷戸城(山梨県北杜市)[7.5km]
比志城(山梨県北杜市)[8.7km]
笹尾砦(山梨県北杜市)[10.0km]
白山城(山梨県韮崎市)[10.4km]
若神子城の解説文
若神子城の口コミ情報
2024年07月18日 風雷坊安房守雨降師
若神子城
2024年6月訪問。1582年の本能寺の変後、武田氏の旧領を巡り起こった「天正壬午の乱」で北条氏直が本陣を据えた城。
現在は「ふるさと公園」になっていて、写真2枚目の薬研堀跡とされる堀跡は北条氏特有の畝堀の様でいまいちはっきりしない。見所は公園広場の奥にある本丸跡から、大手虎口とされる「宿借石(写真4枚目)」と、少し下った先に残る石垣跡と思われる痕跡くらい。
2024年05月14日 今孔明ユーチューバー
若神子城
山梨3日目の2つ目は若神子城!天正壬午の乱の北条氏直の本陣と言われています。獅子吼城から7kmぐらいで徒歩90分で着きました😀
周囲を歩いて登り口を諏訪神社の横に見つけ、道路から直接本丸に行かずにすみました。歩きですと山の傾斜、巨岩、曲輪かもと思える遺構も見え、歩きで登ることをおすすめします。本丸からは富士山を見え、景色は最高です!
2022年05月28日 mootze
若神子城
若神子古城は公園になってます。薬研堀跡の形跡はありますがチョットわかりづらいです
2022年05月08日 ️_
中尾城[若神子城 周辺城郭]
これまで数多の城郭・城館に関する解説板を見てきましたが、中尾城のそれは判読不能さNo.1🥇です😅2008年に訪問した際の画像も引っ張り出してきて、なんとか記載文✍️の復元を試みましたが、どうやってもムリ🙅♂️
旧須玉町の報告書の発行が1984年なので、おそらくその前後に設置されたものと思われますが、2008年の時点で四半世紀も経過していないのに、既にお手上げ🤷♂️状態でした😢現状は工場🏭と田んぼ🌾になってしまっていますが、発掘調査時に堀跡や柱跡は見つかっているので、比定地ではなくココに城があったことは間違いありません😌
2022年03月07日 ️_
味噌なめ地蔵[若神子城 その他]
武田晴信ゆかりのお地蔵さまです😌
令和の現在でも味噌が塗られており、解説板に記載されている「近郷の信仰あつし🙏」を物語っています
〜以下、現地解説板より〜
味噌なめ地蔵尊縁起
当正覚寺大門入口に安置せらる味噌なめ地蔵尊は天文5年今を去る440有余年前、武田信玄公が信濃攻略の際、大門峠まで軍を進めし時、峠にあったお地蔵さんがまばゆいまでに光り輝き兵を進めることが出来ず縄をかけて引いて来たが動かなくなったのでこの地に安置したと伝えられ背中に縄のあとがあり、一名放光菩薩と云う。
また一説には海ノ口城の平賀源心の菩提のため建立せられたとも云われている。
味噌を自分の患部と同じ部分に塗り平癒を祈願、七福即生交通安全心願成就を祈念、霊験あらたかに近郷の信仰あつし。
地蔵真言 オンカカカビサンマエイソワカ 3遍唱うべし
昭和58年 堂宇再建寄附者
2022年03月07日 ️_
平賀玄心之墓[若神子城 その他]
武田晴信が初陣となる海ノ口城攻め⚔で討ち取った平賀玄心の首を埋葬🙏した場所と云われています
残念ながら当時の石塔は織田軍により破壊されてしまっています🥺
〜以下、現地石碑より〜 一部修正あり
武田信玄・初陣之功 平賀玄心之墓
歴史及び伝承
天文5年(1536年)武田信玄は元服して晴信と名乗った
甲斐を平定した武田信虎は、信濃佐久の盟主・平賀玄心の出城・海ノ口城を攻めるも包囲長く、強豪・源心の抗戦はすさまじく、城は落ちずに12月27日撤退を決めた
晴信は殿軍を申し出て、早朝に知略巡らし武勇で名を馳せた玄心を討ち取り功を揚げた
平賀玄心の遺骸は平沢峠に胴塚があるが、首は退陣していた父・信虎に見せて甲斐源氏の発祥の地であり、信濃攻略の兵站基地であり、棒道の起点であるこの地・若神子に埋葬し武勇を称え石塔を建立した
天正10年(1582年)武田勝頼は織田信忠軍に敗北、平賀玄心公の石塔は織田軍に破壊され、現在の墓碑は佐久の人達と若神子の執事が源心公を弔うために設置した
信玄公、玄心公の両雄を讃えて碑を設置する
2021年 武田信玄公生誕500年記念
2022年03月07日 ️_
若神子北城[若神子城 周辺城郭]
若神子城(古城)の北側・西川を挟んだ尾根上に位置する城で、天正壬午の乱⚔に際して北条氏直の本陣が置かれたと云われています🤔
サイトによっては「軽トラじゃないと通れない」旨の表記もありますが、ミニバンでも問題なく通れます😚
城域に入ってすぐに、辛うじて判読可能な朽ちかけた標柱が現存😅していますので、標柱マニアの方は急いで撮りに来ることをオススメします📷(同じ北杜市内の源太ヶ城の標柱もセットで愛でてあげてください🥰)
北端の土塁凸は良好な状態で遺っており、2か所に張り出し凸が見られますが、写真では伝わりにくいです🤣
南郭がまるまるソーラーパネルで埋め尽くされており、皮肉にもその工事で林道が整備されたようです🥺
2017年08月16日 まるき〜陸中守
若神子城
完全に公園化されてしまっていてガッカリ…
保存されている薬研堀も浅くてとても残念な感じ
リアルな烽火台(狼煙台)が設置してあるのは雰囲気があるが手入れされていないらしく危険なのかして立ち入り禁止…。
何故か近所のおもちゃ屋さんに入って話を聞いてみたら、歴史ある城跡を公園化、煉瓦敷きにしてしまって大変な問題になっているとの事。
何処で問題になっているのかは知らないが、やはり城跡の遺構を簡単に埋めて公園化されてしまっては城ファンとしても『残念』としか言いようがない…。
2017年05月16日 さく守刑部卿
若神子城
名前に惹かれて来ましたが現在は公園に
なっています。公園は細長いこじんまりした曲輪で薬研堀以外は遺構は見つからないかな?
その薬研堀ですが薬研というよりかは
他の方も言われているように畝堀って
感じです。それも浅いので拍子抜け
します。
新羅三郎義光の名前で少しワクワク
しましたが、見晴らしの良い高いところにある公園です。
2015年12月31日 日高守きこりん
若神子城
公園として整備されている古城の北に北城があり、こちらの方が多く遺構を残ります。
天正壬午の乱時、北条氏直の大軍が若神子に布陣しましたが、北城には、大軍が籠められそうな異様にだだっ広い平坦地があります。全体的に軽度の藪ですが、北辺に大きな土塁が残り、西辺にかすかながら土塁と帯郭状地形、南辺に虎口を伴う土塁が認められます。
行き方は、R141(清里ライン)の、クラブVerdeというテニスリゾートホテル(?)の緑色の目立つ看板があるところを入り、道なり行き、舗装路の終点から狭い土道に進んでいくと、すぐに北辺の大きな土塁が見えます。
2012年05月03日 三河守コーキしゃん
若神子城
ふるさと公園として整備されていて専用駐車場がありますが17時に門が閉まります。小さいけど薬研掘がありました♪
立地
須玉川右岸の段丘上に立地する。西川と鯨沢にはさまれた尾根の先端に築かれた城郭を大城(古城)と称し、川をはさんで北にある張り出した尾根上の一画を北城、沢の南尾根上の一画を南城と呼ぶ。東から南方面にかけて眺望がよく、北東には獅子吼城(須玉町)、南には大豆生田砦(同町)と七里岩台地上が見渡せる。標高は北城が606m、大城(古城)が580m、南城611mである。東側山裾には佐久往還が通り、城跡と須玉川の間に若神子の街か形成されている。城跡との比高は約80mである。若神子には「御所村」・「御所村北」・「御所前」の地名があり居館の存在が推測され、北に位置する穴平には市にかかわる二日市場の地名が残る。街の小字には「上宿」・「中町」・「下宿」などの宿地名がみられ上本戸と呼ばれる地には土塁が確認できる。
歴史
若神子は佐久往還と「棒道」(大門嶺口)が通る逸見筋の交通の要衝で、「甲斐国志」四七、「若神子」の項は「四達要枢今モ此筋ノ都会ナリ」と表現している。戦国期には天文11年(1543)の武田信玄の諏訪侵攻に際して「若神子御陳所」が取り立てられており、以後武田氏の信濃攻略への道筋にはたびたび若神子が利用されている(「甲陽日記」)。同地は駐屯地・兵站基地として機能していたものと思われる。築城に関わる直接的な史料はみられないが、「国志」は新羅三郎義光の城跡との伝承を載せ、「太郎信義ノ時二及ンデ東鑑二逸見山ノ館ト記スルモ居城ノ趣ニ聞エタリ、谷戸ハ要害ノ城壁ニテ居館ハ此処ナラン」と、治承4年(1180)平氏追討に甲斐源氏が結集した「逸見山」に触れ、谷戸城(北巨摩郡大泉村)を要害とし当城を居館に比定している。天正10年(1582)の天正壬午の戦いでは北条氏直の本陣として当城は取り立てられ、「国志」には「天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居エシ処ナリ」、「武徳編年集成」には八月七日に「氏直方兵ヲ収メ若神子ニ張翼ス」と記載される。
調査等
「国志」は三箇所の旧塁と広い郭と土塁・堀といった遺構を伝え、天正壬午の戦いに際して北条氏によって改修されたと推定している。北城は、東西100m、南北400mの規模があり、北端に台地を横切るように空堀と土塁が設けられる。西側には腰郭と土塁、南端には土塁と虎口があり遺構のみられない東側を道が通っている。土塁等に囲まれた内部は、何段かの平坦地が続く広大な郭となっている。発掘調査が行われた空堀北側からは南北方向の溝と柵列が確認されている。
大城(古城)は、明治時代に壁土の採取場所となったため遺構の残りは悪く、南半部に台地を切断する空堀や土塁状の高まり、腰郭などが確認されていた。公園整備にともない発掘調査が行われ、中央部分で薬研堀、東側では四角に並ぶ柱穴が確認された。中世の遺物としてはかわらけが出土している。 南城は、土橋を有する空堀によって区画された二つの郭が山頂部にあったとされるが、1982年に土採取によって消滅した。現状では、北東から東側にかけて腰郭・竪堀がみられる。土採取場所から常滑焼甕破片や茶臼升などが出土している。
若神子城の3個所の遺構はそれぞれに特徴をもっており、北条軍の本陣や蜂火台といった見方がなされているが、その判断は難しい。
当城は交通の要衝である若神子の防衛と抑えの城で若神子の駐屯地としての性格から宿城的な側面をもっていた可能性もある。さらに軍事的情報伝達の拠点、甲斐加し信濃への中継地に、位置する要所等々いくつかの磯能を有していたとみられ、最終的には「国志」に、「天正壬午ノ時北条氏旧塁二拠テ陣取増築セシコトナルベシ」と記されるように、天正壬午の戦いにおける北条氏の本陣として経営されたと思われる。
現状
大城(古城)は、市の史跡に指定され、現在は一部がふるさと公園として整備されている。北城は山林、南城は土砂採取により消滅している。アクセス
・JR中央本線韮崎駅下車、山交タウンコーチ増富温泉郷線「須玉郵便局前」下車、徒歩約10分