蟻城(西城・半僧坊山)
蟻城(西城・半僧坊山)([海ノ口城 周辺城郭])
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蟻城(西城・半僧坊山)の口コミ情報
2026年07月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
蟻城(西城・半僧坊山)は海ノ口城の北北西約10.3km、千曲川東岸(右岸)、標高約1047.8mの山稜山頂から北西へ伸びる尾根下段上、標高約936mの少ピークを中心に立地する砦です。西麓の舗装道路からの比高は85m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…何だけど、そのままじゃ行けないので同じく位置登録がある「崎田神社」を目標に設定しよう。車をそこら辺の空地に捨てたら南側に見える該当山尾根を適当な場所から適当に登る。ちなみにこの山尾根の直下には当地や蟻城に関わった一族の結構立派な石碑が建っている。設置者はその子孫であり、興味深い内容ではあるのだが此処では紹介しない。
蟻城は山頂の南城を中心に、西城、北城の三つが同一山稜に立地する城砦群だ。縦走する事も可能だが、時間ばかりを浪費するので個別に訪問するのがよい。特に西城と北城は山麓からの比高が低いために尚更の事だ。
縦走した前回訪問時は舐めてかかって登山系アプリの設定もしていなかったんだけど、南城からの山尾根の分岐をロストしてしまい西麓の東電調整池まで下りてしまった(中途半端な道形が残っている。)。再び城地を目指すのに相当な藪漕ぎをする羽目になったんで参考までに…
築城年代、築城者は不明です。この砦については同じ海ノ口城のリア攻めマップにある南城の口コミを参照して下さい。西城はその形状、形態、縄張等から、南城と築城時期、築城主体が同一と考えられており、南城に付随する前衛支砦であると推測されている。異論を持つ人も全くいないだろう。
縄張は3郭が推定され、他の平坦地は腰郭程度の小郭である。卵形の主郭には西辺に土塁が付き、何らかの小社が鎮座している。縄張図を見ると総計で3条の堀切が描かれているが総じて埋まり気味、はっきりとそれと判るものはこの内の2条に限定される。砦としての纏まりは大変良く、特に両側は急峻、単独で見ればプアーなのかもしれないが、南城の前哨としては十分過ぎる程の存在感だ。
本城の南城は明らかに北向きの縄張だが、その北西尾根下段に占地する西城は更にこれを補完している。何故であろうか、絶好のロケーションにありながら甲斐国との境目の方に背を向けている。
室町時代中後期の佐久郡の二大勢力にあったのは大井氏と伴野氏であったが、両者間の支配領域は単純に千曲川を以て二分されていない。単純に言えば、当地の領主層がはっきりとせず、蟻城の築城者の推測はおろか、城砦群を形成しながらも何に対する備えなのかさえ定まらないのもそれが理由だと考える。
日本の中世は武士の時代であり、各地の大小諸勢力は幕府に公然と背くような事はしなかったが、自らの権益確保、勢力拡大には敏感であり、これ等を求めての近隣との争いが絶える事は決して無かった。元を辿れば甲斐源氏の同族とはいえ、大井氏と伴野氏との間にもそれが当てはまる。文明八年(西暦1476年)から両者間での争いが始まり、当初、その目的とするところは、大井氏による佐久郡の一円支配にあったように思われる。従って、その時々の支配領域にも変遷があり、この時期における佐久郡やその周辺地域の様相が容易に見えて来ない。
凄く漠然としているが個人的には、蟻城は南北朝時代の築城ではなかったかと推測している。それが室町時代における佐久郡の騒乱によって再び取り立てられ、該地の領主層等によって、武田氏による佐久郡経略までの間、維持され続けて来た…等と考えている。伴野庄内における、伴野城のリア攻めマップにある、荒城、荒山城、前山城が、文明年間(西暦1469年〜1487年)の築城と推測されている事と決して無縁ではあるまい。









