十二山城
十二山城([龍岡城 周辺城郭])
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十二山城の口コミ情報
2025年10月12日 内記かすりヾ(・ε・。)
十二山城は龍岡城の南南西約2.8km、千曲川東岸(右岸)、谷川南岸(左岸)、標高約764mの丘陵頂部上平場に立地する砦です。西麓の長野県道2号、川上佐久線からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。登城は東麓から道が付いているらしいが、道を探すのが面倒になり北麓から無理矢理に取り付いている。獣柵も見当たらないので何処から登ってもどうにかなると思う。ちなみに現在の丘陵は全山が殆ど墓地と化している。
該地の佐久郡入沢村は、中世には平賀庄を構成していた一村であり、別に「青沼の里」とも呼ばれていた。南北朝時代から室町時代の中後期には、北条氏系の入沢氏、後に田口氏が知行したと伝わる。又、現在の上田市前山に建つ、真言宗智山派の寺院、獨股山前山寺に収蔵されている、銅製鰐口の表陰刻銘には、「信州佐久郡大井庄青治(沼)郷八幡大菩薩宝前奉寄進鰐口 願主 大井美作沙弥源昌 天文七年(西暦1538年)戊戌八月十五日 大工金井四郎左衛門尉秀家」とある事から、この頃の入沢村は大井氏の影響力の及ぶ所となっており、同村が大井庄の内であるとの認識がある他、当時は青沼郷と呼ばれていた事も判る。
築城年代は不明、築城者には入沢氏が推測されているが、上記した領主層の交替から確実にそうだとは言い切れない面がある。
砦は山間部に広がる入沢村へ入る西方入口の南端部に位置し、砦の北側には「狭間田」の小名を残している。西方入口の北端部には同じ龍岡城のリア攻めマップにある磯部城が位置しており、両砦は共に西側を南北に通る佐久甲州道を直接扼する関門の役割を果たしている。
砦の立地する丘陵は全山が大幅な改変を受けている。特に3〜4段の帯郭状の腰郭様地形が目立っているが、やはりこれは後世の植林場の跡と見るべきであろう。従って本来の縄張は丘陵頂部に展開しているのみである。主郭部はそれなりの面積があり、城郭遺構とされる、虎口を形成していたと思しき土塁が数箇所に確認出来る。全体的には恒久的な砦と言うよりは正に陣城の印象を持つ。
往時の入沢村は上州への入口にも当たっている。即ち、佐久甲州道から入沢村へ進み、谷川沿いを東行して谷筋に入り、赤谷を経て南方、余地川沿いを登る余地峠道と道筋を重ねて余地峠に至り、峠を越えれば上野国甘楽郡へと入る。ちなみに余地峠の北北西約2.0kmの山中には、「日本で海岸線から一番遠い地点」…がある。説明板と標柱もしっかりと立っているので、僻地・辺境地マニアの方は挑戦してみるのもいいさ。但し、林道が終わると倒木に塗れた非常に面倒な沢登りを強いられる。
※入沢氏については同じ龍岡城のリア攻めマップにある入沢長義の古宅を参照して下さい。
※「日本で海岸線から一番遠い地点」〜標高は約1200m、海岸線からは約115kmの距離に位置するらしい。ちなみに余地峠側から登るのは土台無理な話…未知の領域、尾根通しで進めないのでそれこそ遭難するわ…
※訪ねるなら冬場にしよう。藪に蚊は当たり前の話なんでわざわざ言いたくないんだけど、尋常じゃない数の藪蚊に襲撃された。藪自体も結構消えるしね。
※写真⑧は西麓の長野県道2号から撮影した近景っす。東方山塊とは「十二窪」を挟んで隔絶しており殆ど独立丘陵と言ってよい。









