磯部城
磯部城([龍岡城 周辺城郭])
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磯部城の口コミ情報
2025年10月16日 内記かすりヾ(・ε・。)
磯部城は龍岡城の南南西約1.9km、千曲川東岸(右岸)、谷川北岸(右岸)、標高約799mの山陵山頂部を中心に立地する砦です。西麓の長野県道2号、川上佐久線からの比高は70m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は南麓の舗装道路の路肩に捨てられる。取り付きは同じく南麓に建つ薬師堂の東側からとなり、かなりの急な斜面に設けられた墓地脇の石段を登り詰めて尾根筋に入る。
築城年代は不明、築城者には入沢氏が推測されているが、該地の入沢村の領主層の交替を鑑みれば確実にそうだとは言い切れない面がある。
砦は山間部に広がる入沢村へ入る西方入口の北端部に位置している。西方入口の南端部には同じ龍岡城のリア攻めマップにある十二山城が位置しており、両砦は共に西側を南北に通る佐久甲州道を直接扼する関門の役割を果たしている。
「勝山記」、には、「此年(天文九年〜西暦1540年)五月ヨリ武田(信虎)殿信州ヘ取懸被食候、去程ニ弓矢ニ切勝被食候て、一日ニ城ヲ三十六ヲシヲト(シ)被食候ト聞エ候、去レモサク(佐久郡)ノカヲリト申候ヲ御手ニ入レ候、小山田(昌辰)殿ノ代ト乄、小林宮内助殿モ一城ヲカマエ申候、去間此方ノヨリコ(寄子)近付陣立シケク御座候て、皆々迷惑至候、…下略」とあり、(板垣信方を大将とする)武田勢が佐久郡へ取り懸り一日に三十六城を落としたと書かれている。同勢は、入沢、臼田の両城を手始めとしたそうだから、入沢城の前哨である磯部城が最も早くに落とされた佐久郡の城なのかもしれない。吹けば飛ぶような小さな砦、まともな戦いがあったとは到底思えない(自落だろう。)のだが…
砦は殆ど単郭の縄張、搦手は二重堀切で終わるが、大手を何処までとするのかが悩ましい。主郭には西辺と北辺に土塁の残滓、西辺のものは中央部が開口している。二重堀切は埋まり気味だが、主郭北側山側背後の堀切には片側で腰郭をカバーしていたと思しき竪土塁が並走している。工夫が大して見られないオーソドックスな縄張とはいえ愛すべき小品として十分に楽しめる。
武田信虎は、諏訪氏、村上氏と盟約関係を結び佐久郡への影響力を拡大させていくが、板垣信方が派手に暴れまくった天文九年は「天文の大飢饉」の年に当たっている。前年に続いた、大雨、洪水、蝗の害により、年明けには全国各地で飢饉となり、春には再び大雨、洪水が追い打ちをかけ疫病が発生、「七百年来の飢饉」とまで評される惨状に至ったが、信虎は正にこの時期に大規模な外征を行っていた事になる。前記した「勝山記」の記述には、「…去間此方ノヨリコ(寄子)近付陣立シケク御座候て、皆々迷惑至候、…」とある訳だが、飢饉にも拘らず頻繁な軍役負担を強いられる被官衆の寄子等が迷惑を被っているとの当時の率直な状況が赤裸々に書かれている。この翌年の天文十年(西暦1541年)六月、信虎は嫡子、晴信によって甲斐国から追放される事になるが、その非道な行いが甲斐国内で好意的に受け止められたのも至極当然の話ではある。
※武田信虎〜追放の理由を「平生悪逆無道」とするが、伝えられる数々のエピソードは裏付けの取れないもの(暴君のテンプレートに過ぎない。)ばかりである。









