宗龍寺館
宗龍寺館([長窪城 周辺城郭])
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宗龍寺館の口コミ情報
2024年10月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
宗龍寺館は長窪城の北北西約6.8km、依田川西岸(左岸)、標高804.7mの城山北東側下段、標高約580m地点の斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている曹洞宗の寺院、「宗龍寺」を目標に設定して下さい。当然、駐車場も付いている。ちなみに宗龍寺の山号は中峰山、立派なお寺さんだ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは依田氏です。もしかしたら木曽義仲の逗留もあったかもしれない。
小県郡の武家の発祥は、まず最初に他田氏、次に滋野氏、その次に依田氏が起こったとされる。依田氏は、源満快の曾孫、為公が信濃権主に補任されて信濃国に下向、その六男、六郎為実が小県郡に入り、依田城を築いて依田氏を称したのがその始まりだとされている。但し、その一方で様々な出自がそれぞれに提起されており決着を見る事は難しい。
依田六郎為実の子、次郎実信は、治承四年(西暦1180年)、依田城を木曽義仲に明け渡してその挙兵を援けた。それ故にその滅亡後には衰退を余儀無くされる。即ち、承久四年(西暦1222年)二月廿一日、茂木知基所領譲状案によれば、信濃国依田庄内の五箇村(飯沼、中山、直⬜︎、内村、腰越)等がその子、一王に譲られており、依田氏の本拠地であった依田庄の地頭職は、幕府と縁の深い八田氏の一族、茂木氏となっていた。
依田氏は閉塞し、一説によればこの間においては飯沼氏を称していたらしいが、後には得宗被官として同氏は復権を果たす。正安二年(西暦1300年)には、依田五郎左衛門行盛が執権の使者となって九州へ下向、その舎弟、朝行は、中務丞を授かり鎌倉幕府の評定衆、奉行職を歴任した。依田庄の回復は鎌倉時代の事であろう。又、南北朝時代から室町時代にかけて、依田氏は室町幕府の評定衆、奉行衆、奉公衆を多数輩出し、概ねで在地と在府に分かれる事になる。
居館の現況は…前述のとおり宗龍寺の境内となっている。城郭遺構は見出せず、現在は寺院としてしか見る事が出来ない。山中の居館地とはいえ、後背地も含めて段付きで敷地面積がしっかりと確保されており、武士の住まう場所としては良物件だと言えるだろう。水の手は居館地東側を流れ下る沢筋か。遡上すると「源水井戸」と呼ばれる湧水もある。
宗龍寺館と後世に呼ばれている訳だが、個人的には同じ長窪城のリア攻めマップにある依田城の事、もしくはその一郭であったと考えており、現在の依田城自体はこの宗龍寺館に付随する狼煙台や物見台に過ぎないとさえ思っている。依田城とは宗龍寺館を中心とする依田の城山全てを活用した一城砦と捉えるのが正解ではないだろうか。
「平家物語」の「横田河原合戦」には、「木曽は、依田城にありけるが…」とあり、「清水冠者」には、「木曽は依田の城にありけるが…」とある。現在の上田市御岳堂に木曽義仲が一時的に逗留していた事に間違いは無いのだが、「依田城」、「依田の城」が、正確に何処の城館を示しているものなのかは不明であり、宗龍寺館はその比定地の一つとなっている。
※宗龍寺東側の登山道をそのまま登れば城山山頂、依田城に至る。