依田常憲屋敷
依田常憲屋敷([長窪城 周辺城郭])
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依田常憲屋敷の口コミ情報
2024年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、居館廻りを続けていると100件に1件ぐらいの割合でお気に入りの場所てのを見付けたりする。他人が見たらしょうもないもんではあるんだけど、実際に現地に赴いた当人だけが感じ取れる「何か」がどんぴしゃだったりする物件がそれだ。今回の口コミはおいらにとってそんな屋敷跡の一つ。
依田常憲屋敷は長窪城の北北東約7.8km、依田川東岸(右岸)、標高約544mの段丘台地緩斜面上平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは依田常憲です。依田氏の一族である事に間違いは無いのだが、各種依田氏系図にその名が見られず時代も不明である。もしかしたら常憲とは出家名の事なのかもしれない。依田氏については同じ長窪城のリア攻めマップにある宗龍寺館を併せて参照して下さい。
依田氏は室町幕府の評定衆、奉行衆、奉公衆を多数輩出して幕府内で重きをなし、概ねで在地と在府に分かれる事になるが、南北朝時代から室町時代にかけての在地での動向には不明な点が多く論争が決着する事はない。特に同期間において依田氏は合戦史料等に一切現れない一族であったりもする。
室町時代には小県郡から佐久郡への進出が認められるが、その時代となるとやはり論争の的である。佐久郡への進出は同郡に拠った大井氏への服属、被官化が端緒であり、一族の内からは平尾氏、平原氏等を輩出、後には同郡芦田郷にも進出を果たし、同郷の依田氏は在名を取って芦田氏を称した。武田氏時代に信濃先方衆として活躍した信守が芦田姓を称したのはこれが故である。
屋敷の現況は…田地、空地等となっている。縄張図を見ると下段に帯郭状の腰郭が付くが、この段を往時のものとするかについての判断は難しいところだろう。屋敷地には土塁の残欠とも伝わる塚が残り、塚上には石祠が鎮座、別に一本松と呼ばれる大樹が屹立する。
居館跡や屋敷跡て再訪する事は殆ど無いんだけど、上田市丸子に足を運ぶと必ず訪ねるのが依田常憲屋敷だ。おいらは段丘上の一本松が醸し出す夕暮れ時の寂寥感が大好き。過去には屋敷跡を示す石碑なんかも建っていたようだけど、今はこの情景だけで十分だとも思う。田地、果樹園の中、塚上の一本松は此処が武士の屋敷地であった事を今も控え目に教えてくれている。
※依田氏は室町幕府の評定衆、奉行衆、奉公衆を多数輩出〜評定衆を務めた左近大夫時朝は足利尊氏の一周忌を執り仕切っている。
※写真⑦、背景向かって左側の山稜が同じ長窪城のリア攻めマップにある依田城の城山っす。
※夕暮れ時の写真はしまい込んでしまって一生懸命にならないと出て来ないや。