里見城(さとみじょう)
里見城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県高崎市下里見町字古城
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 新田義俊
築城年
- 保元元年(1156)?
主な改修者
- -
主な城主
- 里見氏
廃城年
- 嘉吉元年(1441)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(里見城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
安中城(群馬県安中市)[3.6km]
北新波砦(群馬県高崎市)[5.0km]
箕輪城(群馬県高崎市)[6.0km]
高崎城(群馬県高崎市)[8.6km]
富岡城(群馬県富岡市)[10.1km]
奥平城(群馬県高崎市)[10.3km]
蒼海城(群馬県前橋市)[11.2km]
松井田城(群馬県安中市)[11.7km]
白倉城(群馬県甘楽郡)[12.7km]
石倉城(群馬県前橋市)[13.1km]
里見城の解説文
里見城の口コミ情報
2024年10月03日 ひらお上野介
里見城
攻略マップで東から道があり、入れるように見えますが、畑の畦道程度1m弱です。車では入れません。歩いて行くと蛇がとぐろを巻いており、おそらくマムシと思われました。できれば長靴着用が望ましいと思います。
2024年01月07日 マグロ常陸介祐平
里見城
新田義重の子、里見義俊が築城し十代家基が結城合戦で戦死するとその子義実が安房白浜に転出したことにより、廃城となったようです(一族がその後も居城した説も)。
外郭は、墓地や畑となり分かりづらいですが、土塁の残る本郭や腰郭・本郭と外郭を分断する堀切はよく残っています。
里見地区には、新田義貞は里見で育ち、新田宗家の養子になったという伝承があるようです。
2022年04月16日 国府左京大夫城介
下室田の松山城[里見城 周辺城郭]
西上州に進出した北条氏の対真田氏への拠点
【歴史】
天正10年(1582)に、北条氏直が上田朝直の子・長則に命じて築城した。上田氏の本城である武蔵松山城に因んで名づけられた。その後、天正18年(1590)の小田原征伐において、上杉・前田連合軍の前に無血開城し、そのまま廃城となった。
(注)説明版では、「上田安礫斎信義の嫡子、上田上野介信善に命じた」と書かれていますが、各種資料を勘案して、上田信義=上田朝直、信善=長則(上野介と記載されており、長則は能登守なので、弟の憲定の可能性もあり。憲定が家督を継ぐのは長則が亡くなった翌年の天正11年なのでおそらく長則だと思っています)と解釈しています。
【遺構】
里見城の北西4.1kmに位置する比高40mに築かれた山城で、現在は金毘羅神社や墓地となっている。金毘羅神社が主郭にあたり、主郭を中心に腰曲輪が段々に連なっている。また、主郭北側には竪堀が、南東側の腰曲輪を貫くように堀切が施されている。
【感想】
武蔵松山城主である上田氏が築いた城ではあるが、武蔵松山城ほどの規模はなく、あくまでも街道を監視するための城であったように思えます。拠点城郭にするのであれば、ここから北に1km程行けば、鷹留城があるので、そこを再利用すればいいが、鷹留城が奥にあり過ぎるので、街道に近いこの場所に新たにお城を築いたものだと思います。
対真田を念頭に築かれており、箕輪城から榛名山南側のルートを利用して、手子丸城や岩櫃城を狙うための、中継的な城郭だったのではないでしょうか。そのため、上田長則らが実際に城に入ることはなく、その家臣が実際の城主の可能性が高いと思います。
【アクセス】
群馬八幡駅からレンタサイクルで、約40~50分。群馬八幡駅からバス(ぐるりん榛名線)で、榛名支所前で下車し、徒歩5分。(1日6便)
【写真】
1:登城口
2:説明版
3:段曲輪1
4:段曲輪2
5:主郭と堀切
6:金毘羅神社
7:二重竪堀
8:竪堀
2021年06月03日 真田上野介信吉
鷹留城[里見城 周辺城郭]
鷹留城は、中世永禄期(1558~69)の中規模山城の典型であり、本丸以下の曲輪、虎口、大手口、搦手口、井戸、堀切等の各種遺構が原形に近く残っている点では県内希な城跡である。
明応年間(1492~1500)長野業尚築城。永禄9年(1566)9月武田信玄勢のために落城(城主業通)。長野氏4代70余年の居城である。
並郭式であり、南北430㍍、東西300㍍、本丸高さ東谷より70㍍。
東南の菩提寺長年寺に長野氏累代の墓がある。
ー主郭設置の説明板(高崎市教育委員会)よりー
群馬県高崎市(旧榛名町)にある鷹留城は箕輪城の西方約5.5キロに位置します。永正9年(1512)箕輪城に本拠を移すまでの長野氏本拠、以降落城まで有力支城として機能しました。
この城の特徴は連続した5つの郭を配置し、それぞれに堀切、主郭東側は段郭の連続、また畝状竪堀を含めた竪堀の多用にあります。
特に大手口には上の郭から畝状竪堀を設ける徹底振り。段郭に石積み、更には3郭に石垣を施工。主郭東側の段郭から主郭を全く見ることが出来ない程に豊富な土木工事を実施しています。所要2時間コース。
投稿の写真はほんの一部に過ぎません。とにかく写真映えのする城跡です。群馬県でも屈指の素晴らしい遺構をお楽しみください。
現在見られる100名城箕輪城は、徳川・井伊直政プロデュース。こちら長野氏オリジナルの鷹留城と比較するリア攻めをオススメします。
※搦手口側には1台分の駐車スペースあり。登城口のスポットを設定しておきました。
2021年03月08日 真田上野介信吉
雉郷城[里見城 周辺城郭]
雉郷城(きじごう)は、群馬県高崎市中里見町(旧榛名町)にある里見城の支城です。
永禄年間(1558~1570)に里見河内によって築かれたといわれています。
永禄9年(1566)武田信玄の侵攻を受け、箕輪城と共に落城しました。
城郭は、細尾根に直線状に堀切で6つの郭で区切られ、また主郭下に設けられた腰郭からなる山頂部と、麓は5つの郭に区切られ、相応数の兵を籠めることが可能であった段郭で構成されています。
それは趣の異なる2つの城郭を一度に楽しむかのよう。
このお城の最大の見所は、2郭と3郭の堀切から麓に向かって箱堀状に伸びる竪堀にあります。基本、山頂部の郭は笹藪だらけにあって、このような竪堀がしっかりと残っているのは見事。堀切から見た写真と、下から見上げた写真の両方を添付致しました。
6郭からはゴルフ場を見下ろしていますが、ここには緩やかな斜面や平場が見られることから搦手と想定します。
麓最上段8郭には真ん中に窪みが確認されることから門が置かれていたのではないかと思います。
以下、9~11郭は現在梅林となっています。
アクセスは、国道406号『上里見』の信号を安中方面の県道へ。そして林道に左折し、道なりに進むとスポット設定した登城口が右手に見えます。この辺りは少し広いので、路肩に駐車することになります。
林道が11郭と12郭を分断し、麓の段郭は梅林。また、山頂部は笹藪だらけからの切岸直登など。そして、案内板や説明板も一切ありません。
しかしながら、リア攻めして損のない素晴らしい城郭であると言えます。西上野攻略の際のリア攻めコースに雉郷城を是非。
2020年06月26日 大隅守上
鷹留城[里見城 周辺城郭]
大手口 土橋等遺構が良好に残ってます。
2016年06月20日 永眠武蔵守釋 葱進
里見城
車で高崎市中心部方面から来る場合、下里見の交差点過ぎて数十メートル先の路地を左折、坂を上り鳥居をくぐるとやがて右手に鬼門除けとして祀られた城山稲荷の本殿が見えてきます。社務所横のスペースに駐車可。
そのまま道なりに進むと手づくり感満載な「里見城跡入口→」看板があり、その小径を入ると本郭に出られます。
本郭・堀跡・腰郭あわせて所要15分ほどでした。
2016年05月28日 左衛門佐平八郎
里見城
里見城とは 安房里見氏が転居する前の支配地らしいです
この地名より新田氏より里見氏に改名したとか
細い道を入って行くと すぐ主郭です
周りは しっかりした土塁が囲っています
左手土塁を上がると 眼下に腰曲輪があります
入り口手前を右に入ると 空堀跡?らしき名残りがあります
すぐ近くに「ぴんころ神社」なるものもあります
興味のある方は是非!!
2014年12月02日 牢屋見廻り同心マダオ
里見城
里見城下の光明寺には里見氏歴代の墓があります。また光明寺周辺は里見館跡で新田義重の庶子・新田義俊(里見氏開祖)が館を構えていました。一部土塁が残っています。
里見城は、並郭式の山城跡である。
築城は新田義俊とされ、正確な築城年は諸説あるが、11代城主義実が嘉吉元年(1441)に房州白浜へ移り、廃城になるまでの260年余りの間、里見氏の居城であった。
参考文献
・高崎市公式サイト(https://www.city.takasaki.gunma.jp/)。