羽生城(はにゅうじょう)

羽生城の基本情報

通称・別名

所在地

埼玉県羽生市東5(地図は天神郭を示す)

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

廣田直繁

築城年

天文9年(1540)頃

主な改修者

主な城主

廣田氏、大久保氏

廃城年

慶長19年(1614)

遺構

曲輪

指定文化財

市史跡(羽生城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

館林城(群馬県館林市)[7.6km]
騎西城(埼玉県加須市)[8.4km]
忍城(埼玉県行田市)[9.6km]
花崎城(埼玉県加須市)[10.0km]
皿尾城(埼玉県行田市)[10.2km]
鶉古城(群馬県邑楽郡)[10.4km]
種垂城(埼玉県加須市)[10.5km]
石田堤(埼玉県鴻巣市)[10.5km]
赤岩城(群馬県邑楽郡)[10.6km]
椿田城(栃木県佐野市)[11.9km]

羽生城の解説文



羽生城(はにゅうじょう)は、埼玉県羽生市にあった日本の城。16世紀初頭の築城とされ、永禄3年(1560年)の長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵以降、上杉方の関東攻略の拠点となったが、後北条氏の度重なる攻撃を受け天正2年(1574年)閏11月に自落した。その後、城は後北条氏から成田氏に与えられ、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封後は大久保氏に与えられ、慶長19年(1614年)1月に廃城となった[1]。羽生市の指定文化財(史跡)に指定されている[2]

歴史 

築城時期

築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では弘治2年(1556年)、木戸忠朝によるものと記している[3]。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない[4]。一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で

と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている[5]。なお、直繁と忠朝の両者は兄弟である[6]

『鷲宮町史』では祖父の代から山内上杉氏の配下として活動していた直繁と忠朝の父・木戸範実も含め親子で入城したものとしており、上杉方には武蔵国へ勢力を拡大させようとする後北条氏に対抗するための拠点とする狙いがあったとしている[7]

広田・木戸氏の時代

天文21年(1552年)頃に作成された『小田原旧記』によれば「当時武州羽丹生御城代 中条出羽守」とあり、この時期に後北条氏の攻撃を受けて落城し[8]、中条出羽守が城代を務めたと考えられる[9]。一方、城を追われた直繁らは他の土地に移り住んだとも、小松神社(後の羽生市小松)付近に移り住み、一時的に後北条方に従属したとも考えられる[10]

永禄3年(1560年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が常陸国の佐竹義昭の要請により関東出兵を実施すると、かつて上杉氏の配下にいた多くの家臣が景虎の下に参陣した。直繁はこの機会に羽生城の中条出羽守を攻めて城を取り戻し、弟の河田谷忠朝は配下の渋江平六郎や岩崎源三郎と共に景虎の下に参陣すると、同年11月12日(1560年11月29日)に、景虎から羽生城および羽生領を安堵された[11]。この後、武蔵国の武将の多くが後北条方に従属していく中で直繁・忠朝兄弟は一貫して上杉方に属し、抵抗を続けることになった[12]

永禄4年(1561年)、謙信が成田氏の本拠である忍城の支城・皿尾城を奪取すると、忠朝を配置した[13]忍城主・成田長泰は前年の謙信の関東出兵の際には謙信の下に参陣したが、すぐに北条氏康に従属しており、長泰の動きを牽制する狙いがあった。この後、皿尾城をめぐり二度に渡り攻城戦が繰り広げられたが、忠朝は岩付城主・太田資正の加勢もあり、これを退けた。

永禄12年(1569年)閏5月、武田信玄の関東出兵により謙信と北条氏康の間で同盟(越相同盟)が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領などの領有が認められた。永禄13年(1570年)閏5月、直繁が謙信から上野国館林城を拝領したため、皿尾城主の忠朝が新たな城主となった[14]。この後、直繁が死没すると忠朝は息子の木戸重朝、直繁の息子の菅原直則との協力関係を強め、後北条勢に対抗した[15]

元亀2年(1571年)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、北関東における上杉・後北条間の抗争が再燃し、羽生領や深谷領は主戦場となった[16]。元亀3年(1572年)8月、謙信は後北条の軍勢が羽生・深谷方面をうかがう動きを見せると、忠朝らに救援のため出兵する旨を伝えたが、羽生勢は後北条方の北条氏照、成田氏長らの軍勢の前に敗れた[17]。天正元年(1573年)4月、北条氏政は軍勢を率いて深谷城の上杉憲盛を攻撃し、憲盛を従属させると、同年8月には成田氏長の要請もあり羽生と忍の中間に位置する小松に着陣し、羽生城を攻撃した[18]

天正2年(1574年)4月、謙信は羽生城の救援のため越後春日山城から上野国館林城に着陣し、北条氏政の軍勢と利根川を挟んで対峙したが、川の増水のため渡河することができず、船による兵糧や物資の支援も後北条方の工作により失敗に終わった[19]。同年10月、謙信は下総国関宿城および羽生城の救援のため再び関東に出兵し、武蔵国の忍領、鉢形領、松山領などを次々に焼き払ったが、関宿城の救援には失敗した[20]。同年閏11月、謙信は羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城へ逃れた。

成田氏の時代

この後、羽生城は忍城主・成田氏長の支配下に置かれ、『関八州古戦録』や『北越軍談』によれば成田大蔵少輔、桜井隼人佐[21][22]、『成田系図』によれば氏長の叔父にあたる善照寺向用斎、田中加賀、野沢信濃が共に城代を務めたと記されている[23]。これらの成田家臣に、『成田分限帳』に記された埴生出雲守、埴生助六郎、岩瀬半兵衛、川俣弥十郎などの在地にとどまった木戸氏の旧臣が従ったものと推測される[24]

一方、謙信は関東攻略を果たすことなく天正6年(1578年)に亡くなり、家督を上杉景勝が相続すると、翌天正7年(1579年)に甲斐国の武田勝頼と同盟を締結した(甲越同盟)[25]。同年7月、勝頼は上野国に侵攻し、西上野の沼田城、東上野の大胡、山上、伊勢崎などの後北条方の諸城を攻略した。こうした状況の中で上野国に逃れていた木戸氏の旧臣の一部は、御館の乱の余波で混乱の続く上杉氏ではなく、勝頼を頼ったものと推測されている。天正8年(1580年)1月、菅原直則は厩橋にある赤城神社に祈願状を出し、勝頼の下で羽生城の奪回および領地回復を図ろうとしたが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡などにより叶うことはなかった[26]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、城代の向用斎は羽生城は放棄して忍城に籠城した。忍城は1か月におよぶ籠城戦の末に開城した。

大久保氏の時代と廃城

後北条氏の降伏後、同年7月26日に徳川家康は諏訪頼忠に羽生領を含む2万7千石の領地を与えたが、同年8月に家康が関東に入封すると、羽生領は大久保忠隣に与えられ忠隣は2万石の領主となった[27][28]。ただし忠隣は羽生城に入城することはなく、家臣の匂坂道可や徳森伝蔵が城代を務めた。

文禄3年(1594年)、忠隣は父・大久保忠世の死去に伴い家督を相続し、羽生領を含む6万5千石の領主となったが、その後も城代家老らが羽生の領地経営にあたった。その後、慶長19年(1614年)1月に忠隣が改易となり近江国に蟄居するように命じられると、羽生城も同時に廃城となった。

城郭・遺構 

羽生城は利根川沿岸の舌状台地を生かした平城であり、その周囲は沼地に囲まれていたとされる[29]。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や福島東雄著の『武蔵志』には次のように記されている。

この他に江戸期の様子を伝える資料として宝暦3年(1753年)に作成されたと推測される『武陽羽生古城之図』があるが、歴史家の冨田勝治は「仮に(『新編武蔵風土記稿』や『武陽羽生古城之図』が執筆された時点で)遺構が残されていたとしても、それが羽生城全体の姿とはいえないだろう」としている[30]。かつて羽生の市街地を囲うように曼荼羅堀と呼ばれる堀が設けられていたといい、冨田はこれが羽生城の惣堀の役目を果たしていたものと推測している[31]

1971年(昭和46年)12月5日、記念物(史跡)として羽生市の指定文化財となった。ただし、城跡は住宅地や曙ブレーキ工業の工場敷地となっている[32]。沼地も昭和期には一部が残されていたが、平成に入った現在では完全に埋め立てられている[33]。天神曲輪の跡には古城天満宮が建立され、境内には城跡を示す石碑が建てられている。

アクセス 

  • 東武伊勢崎線羽生駅から東へ徒歩20分

参考文献 

  • 【書籍】「行田市史 資料編 古代中世」
  • 【書籍】「戦国合戦大事典第2巻 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県」
  • 【書籍】「羽生・行田・加須 歴史周訪ヒストリア」
  • 【書籍】「羽生城と木戸氏」
  • 【書籍】「羽生市史 上巻」
  • 【書籍】「鷲宮町史 通史 上巻」
  • 【書籍】「大日本地誌大系」|publisher=雄山閣|editor=蘆田伊人|date=1929-8|ref=harv}}

羽生城の口コミ情報

2025年12月26日 マグロ常陸介祐平
桑崎堀の内[羽生城  周辺城郭]



日本城郭大系には、「空堀あり。羽生城の出城という」とのみ書かれており、お城の来歴や城主に関しては伝わらないようです。お城の位置に関しては、桑崎三神社、大日如来堂(写真5枚目)の西側にある墓地付近、その中間の東側とするお城のサイトがあり、混乱しています。桑崎三神社は、明治4年に八幡社と天神社と稲荷社が合祀されたようで、神社の石碑には、八幡社が元亀3年(1572年)の岩瀬河原の合戦において羽生城と忍城が戦勝した記念に創建されたことが記されていますが(写真3枚目)、ここにお城があったことには触れていません。

桑崎三神社(写真1枚目)の周辺には、土塁状の太い土盛り(写真2枚目)が見られますが、これは利根川が運んだ榛名山や浅間山の噴出物などの土砂が溜まった後に平安~室町時代の寒冷期に強い季節風によりふき溜められてできた砂丘で、埼玉県の天然記念物に指定される貴重な地形のようです(写真4枚目)。

墓地はやや高台となっており、現在平坦地は見られませんが、低いながらも展望は良好な場所となっています(写真6,7枚目)。また、中間点の東側は畑と宅地で、真っ平らな場所となっています(写真8枚目)。いずれにしても大系に書かれている空堀は見つけられず、分からずじまいの結果となりました。

2025年12月25日 マグロ常陸介祐平
小須賀内手[羽生城  周辺城郭]



羽生城主木戸忠朝の家老、磯豊前義直の砦とされています。川俣氏の寄居(川俣砦)からは、南西に約300mとかなり近い場所となります。

親族の渋井家の家譜によると、磯氏は木戸忠朝(伊豆守)が越後に移った時に病気の為同行できず、上川俣村に居住し名主役を務め、小須賀村の開発名主になったとされているようです。木戸忠朝が羽生城を維持出来なくなった後に、越後に移った記録は他にはないようですが、帰農した磯義直(源助)が羽生城主となった大久保忠隣の元で開拓(荒地の再興)を行ったことは、記録に残るようです。

明確な遺構は見られませんが、お城の東側には細い用水が流れ、南側には空堀状の溝、西から北側は幅のある低湿地となっており、お城っぽさは感じられました。

2025年12月24日 マグロ常陸介祐平
寄居[羽生城  周辺城郭]



別名は川俣砦・亀開城で、川俣氏のお城とされます。川俣氏は佐野氏の一族で、14世紀中頃に騎西城主を務めた戸室氏の流れです。川俣砦に約120年居城して、天正11年に川俣主膳正貞次が城主の時に落城したとされるようです。成田氏の分限帳に川俣弥重郎と川俣弥助が見られますが、砦の主でしょうか。川俣氏の後には、早川氏が移住したようで、上川俣村の名主を務めています。

末裔とされる山形県遊佐町の川俣氏の伝承では、先祖は足利氏より源姓を賜り、天正11年の落城後は庄内に赴き最上氏に仕えたとします。子孫は酒井大学頭の藩医を勤め、幕末の川俣茂七郎は庄内藩を脱藩し天狗党に参加、元治元年に26歳で自刃しています。

お城は、土塁が囲み、北側と西側には空堀状の溝が見られます。城郭的な構造であることは間違いないと思いましたが、埼玉用水に沿った北側の土塁は、曲輪を囲み南に折れた先も伸びており、不自然さを感じました。

軍曹図鑑さんの「城郭図鑑」のサイトに、該当地の1960及び1980年代の航空写真を載せていますが、不自然な北側の土塁だけでなく、木で見えない東側以外は田んぼとなっており、土塁が存在していないことが確認できます。何のために四方を土塁で囲んだのでしょうか(まさかの地主さんによるお城の復元?)。

2025年12月23日 マグロ常陸介祐平
古城[羽生城  周辺城郭]



地元で「古城」と呼ばれており、日本城郭大系では、「羽生城の支城。のち島村又右衛門が居住という」と簡単な説明です。位置もネットで調べても八幡社付近(写真1~3枚目)らしいことはわかるものの、特定されている感じではありません。また、埋蔵文化財包蔵地にもなっていませんでした。八幡社を参拝し、犬の散歩をされている方にお城について尋ねると、「島村さんの分家、もしくは本家の場所に古城があったと言われているが、遺構は残っていない」との回答でした。地元では、お城と認識されているようです。

埼玉苗字辞典によると、島村氏の先祖は管領細川高国の家臣で、関東にくだり宮代町の百間に居住した島崎氏の一族としています。百間の島村氏が百間を開拓したのが天正18年とされていることから、手子林(古城)の島村氏が戦国期の城主ということでは無さそうです(同じ羽生市内でも、上新郷の島村氏は北条氏の旧臣で相模出身とされる)。

位置登録は、教えていただいた分家にしています(写真4枚目)。周辺は、田んぼに疎らに住宅がある平坦な土地で、要害性は感じられません。

2025年09月15日 マグロ常陸介祐平
大越城[羽生城  周辺城郭]



風土記稿によると大越の地は、梅松論に建武2年に太田荘を小山常若丸を宛がったとあり、当村に小山氏の建立した寺院があり、太田荘はこの地かもしれない。また、成田分限帳に51貫文大越彦四郎とあるのも、当所に住んで在名を名乗っているとしています。小名の舘野は、古に羽生城があった頃に砦があったところと伝わるのみで、誰が住んでいたところか伝わらないが、堀や土塁等の形が残っており、村内の徳性寺は小山判官朝政の祈願所で、義政が再興したと伝わり、柳生村の才次郎の家系に、天正11年7月に小山小四郎(秀綱)が小田原勢に打ち負かされて当村に落ち来た時に才次郎の先祖主水助も従ってしばらく住んだと記していることから、恐らくこの地に小山氏が住んでいたとしています。徳性寺には、貞和元年(1345年)に建てられた小山朝政の供養塔があります。

お城は、徳性寺の西側に隣接した八幡神社付近となります。神社の西側の竹藪の中に櫓台のような塚が見られ土塁のような土盛りも繋がっていますが、写真ではわからない状況です。神社の背後も薄く盛り上がっていますが、薮の土塁との関連は感じられません。付近は大越古墳群のある場所なので、塚が櫓台だとすると古墳を利用したものと思われます。また、徳性寺にも土塁状の土盛りが見られますが、城郭としてのものがは不明です。

お城は、大越氏の居館なのか、本当に小山氏が居住したのか、興味深いところです。

2025年01月30日 マグロ常陸介祐平
小松寺館[羽生城  周辺城郭]



小松神社が該当地となります。小松神社は、江戸時代まで熊野白山合社と呼ばれる羽生領72ヶ村の鎮守でしたが、向かいにあった小松寺が廃仏毀釈で廃寺となると、僧侶が還俗して神職となっています。廃寺となった小松寺も由緒のあるお寺で、平重盛の家臣平貞能が重盛の遺骨を携え神社に葬り、菩提を弔うために創建したものです(城里の小松寺と同じような由緒)。社寺共に羽生城との関係は深く、木戸忠朝は社殿を修復して祈願所としており、広田直繁は阿弥陀如来像を奉納しています。

神社の北・東・南側には水堀(写真1,4,6,7枚目)、神社背後の西側には土塁状の土盛り(写真2枚目)が見られ、城郭的な要素を多分に感じます。風土記稿の絵図では、堀は川のように描かれていますが、羽生城の支城的な役割を持っていたのかもしれません。

17世紀の建築とされる神社本殿は、市の文化財に指定されていますが、覆屋があり良く見えません。重盛の遺骨を埋葬した地に立つイチョウの木(写真5枚目)は見事です。

2025年01月26日 マグロ常陸介祐平
羽生陣屋[羽生城  周辺城郭]



幕末の慶応3年(1867年)に羽生城の跡地に、羽生18ヶ村を治める為に築かれた陣屋です。高山稲荷神社を含む約六町歩(小学校の運動場約6ヶ分らしい)の広大な敷地は水堀がめぐり、代官の役所・住居・道場・馬屋・蔵などが建っていたようです。

戊辰戦争時には忍藩兵が詰めていたようですが、官軍300名が押し寄せるも忍藩小隊長の丹羽蔀が割腹し、開城して衝突を免れています。その後、陣屋は焼き払われました。着工からわずか4ヶ月の出来事です。丹羽蔀の割腹は、忍藩の無血開城にも影響した可能性もあるようです。

明確な遺構は残っていません。跡地に建つ高山稲荷神社は、羽生城主として木戸忠朝が永禄3年(1560年)入城の際に小高い山(古墳らしい)に稲荷神社を祀ったと伝わるようです。

2024年05月27日 埼玉内記
羽生城

天満宮があるのみ、城郭の名残りはありません。天満宮横の道路上に車を停めさせてもらい見学しました。

2023年04月25日 noble大納言弥勒菩薩
羽生城



平城というか、縄張り図を見ると、“沼城”とでも云うべきジャンルか…。(そんな名称のお城が岡山県あたり(?)に存在したような…)神社に城址石碑はあるものの、果たしてここが城内の何処にあたるのかももはやよく分からず…。ただただ瞑想して、往時に想いを馳せるのみ、です。

2023年04月23日 マグロ常陸介祐平
堀越館[羽生城  周辺城郭]



城域は羽生市の所有となっていますが、予算がつかないようで整備されておらず、立ち入りも市の許可が必要です。

ネットの外側からの見学となりますが、北西部分は土塁と空堀を見ることが出来ます。

2023年01月15日 マグロ常陸介祐平
羽生城



上杉謙信の関東攻略の拠点~成田氏長の支配下~大久保忠隣の城(本人は在城していない)と、一冊の本になるほど歴史が詰まっているようですが、残念ながら遺構は残っていません。城址の石碑がある古城天満宮は城主の木戸忠朝が天神曲輪に建てた神社で、扁額と官公廟梅樹記の碑が市の文化財に指定されています。

2022年06月26日 菊左近衛少将
羽生城

広い道から少しそれた、住宅街が終わったあたりに神社が。大きな看板に、詳細な説明書きがありました。

2019年04月27日 樋口弾正大弼与六
羽生城

古城天満宮に城趾婢が有りますが、あくまでも天神郭の有った場所で、本丸は曙ブレーキの西側にありました。
そして、本丸の西に、二の丸、三の丸と続きます。城趾は工場や宅地開発により消滅しています、しかし三の丸跡の西側に高山稲荷神社が櫓台跡とされ、又クランする道路は堀跡と言われています。

2017年05月18日 Nabeppu左馬頭
羽生城

公共の交通機関で行けるのは、羽生駅まで。路線バスは無く、東口から歩く事になります。北東方向に歩いて30分程掛かります。
駅前通りを1本北隣の通りを歩いて、曙ブレーキ工業を目指して行くと見つけ易いです。古城天満宮が城跡になります。先人の方も書かれていますが、駐車スペース等はありません。城跡前は少し広くはなってますが、駐車禁止の看板が有ります。
遺構は確認出来ません。3つの案内版があるのみです。

2016年02月23日 永眠武蔵守釋 葱進
羽生城

碑や解説板のある古城天満宮は住宅地にあります。近くの道路はかなり狭いものの天満宮前の道路だけは広く、短時間であれば駐車も問題ないでしょう(ただし、防火水槽や消火栓があるので駐車可能場所は非常に限られます)
歴史的に天満宮のほうが先に祀られたようで、城にかんする遺構は全くといっていいほど残されてませんが、後世に伝えるべく碑と解説板が設置されています。

羽生城の周辺スポット情報

 寄居(周辺城郭)

 堀越館(周辺城郭)

 小松寺館(周辺城郭)

 羽生陣屋(周辺城郭)

 大越城(周辺城郭)

 桑崎堀の内(周辺城郭)

 小須賀内手(周辺城郭)

 古城(周辺城郭)

 毘沙門堂(寺社・史跡)

 大天白神社(寺社・史跡)

 源長寺(寺社・史跡)

 高山稲荷神社(寺社・史跡)

 正覚院(寺社・史跡)

 川俣関所跡(寺社・史跡)

 上杉謙信旗かけ松(その他)

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