下忍口跡
下忍口跡([忍城 碑・説明板])
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下忍口跡の口コミ情報
2019年09月12日 野呂利左衛門督休三
左肩に忍城の銘とQRコードがありますが忍城史跡碑ガイドブック(初版)には収録されていません。市教育委員会が関与していないのか?(他の碑は左下に行田市教育委員会の銘あり)
飲食店の前にあり、裏面を見るには敷地に一歩、足を踏み入れなければならないので遠慮しがちになります。
「下忍口寄せ手の総大将は石田三成、先陣、二陣、三陣、四陣、後陣、併せて七千余騎が三手に別れ、怒濤の攻撃を開始した。守備の将 本庄越前の守がこれを迎え撃つ。双方渾身満力を振るって奮戦又奮戦、一時は三成もあわやと見られたが、からくも逃げのびたと伝えられる。」
この記述は成田系図の長親の記載を元にしているようです。忍城戦記では酒巻靱負が配されていたとされます(成田系図では遊軍)。
本庄越前守は児玉党の庄氏(本拠に残った庄氏の意味で鎌倉時代に本庄を名乗ったとか。宗家としての本庄氏とは別。ややこしい)の嫡流の末裔のようで、天正十年成田家分限帳では「御家門 永楽千貫文 本庄越前守長英」の記載があるそうです(天正十年は1582年。攻防戦の8年前)。
忍城の総構からすると大宮口から入った場合に最初に当たる出入り口です。城内から見ると、三重櫓や勘定所のある曲輪の南門(熊谷口。行田市郷土博物館東側の忍城通りと、水城公園北側のみずしろ通りの交差点[「勘定所跡」の南の信号機マーク]辺り)から西に二つ目の馬出的な曲輪の門です。忍城は今でこそ一面住宅地ですが、かつては沼のただ中に築かれた城です。これらの曲輪は元は沼中に浮かぶ島だったのでしょうか。