大樋跡
大樋跡([忍城 碑・説明板])
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大樋跡の口コミ情報
2019年08月02日 野呂利左衛門督休三
忍城史跡碑の一つです。すぐ後ろが田んぼなので碑の裏面が見にくいと思います。
碑の裏面は以下の通り。
「藤原行成を祖に持つ成田十四代親泰は忍城築城にあたり 利根 星川の水をこの大樋により調節し城の沼沢に流し 奈良春日神社を勧請し この大樋を蔽いかくす 忍城重要地であった 成田氏長 連歌の宴を春日社で催す」
親泰について14代と記していますが成田氏系図をもとに藤原基忠(行成の弟)を初代に数えていると見られます。他に藩翰譜では同じ藤原氏説でも道長(行成のいとこ。摂政で日記「御堂関白記」を残す。摂政関白を排出したり五摂家はいずれも道長の子孫)の子孫とします。また武蔵七党の横山党とする説もあります。
碑文では忍城の築城を親泰としていますが、近年ではその父の顕泰によるとするのが有力です。
碑文の最後に出てくる氏長は親泰の孫で、戦国時代最後の成田氏当主。北条氏滅亡の際に同氏の命令で小田原城籠城戦に参加(よって忍城攻防戦にはいなかった)。北条氏滅亡後、所領を没収されますが、後に下野烏山(栃木県烏山町)の大名になっています。
氏長が連歌の宴をこの近所の春日神社で行ったとありますが、連歌は南北朝・室町・戦国の頃に盛んで当時の必須教養でした。連歌といえば連歌師の宗長という人物が白河を目指す旅の時に忍にも立ち寄っており、その時の紀行文の「東路のつと」でも城の周りを沼沢が取り囲んだ様子を記しています。
忍城跡の発掘調査でも水が湧き出て大変だったそうですが、湧き水だけでなく、忍川やここ大樋を流れる水によって水城の要害と景観が作り出されていたそうです。
辛うじてですが、この辺りからも行田市立博物館の三階櫓を望むことができます。