忠堯侯・忠国侯隠居所跡

忠堯侯・忠国侯隠居所跡([忍城  碑・説明板])

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忠堯侯・忠国侯隠居所跡の口コミ情報

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
奥平松平家九代の忠堯とその弟で十一代の忠国の隠居所についての碑です。碑が建っている場所は当時は水堀で(水城公園の忍沼が広がっていた)、東に50mほどのところにありました。あった曲輪は沼橋御門の曲輪ですが、門と付随する広場と隠居所のみの独立した曲輪でした。この曲輪は隠居所があったことから御屋敷とも呼ばれたとか。
この碑がある場所は御屋敷の曲輪と勘定所のある曲輪にある馬出状の部分です。

大手御門から本丸に向かうときには必ずここの前を通るので有事の際には砦的な役割を期待されていたのでしょうか。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
奥平松平家は忠堯の文政六(1823)年に桑名から忍へと転封になりました。奥平松平家は元から石高に比して家臣が多かった上に、白河(福島県白河市)時代に跡目騒動で十五万石から十万石へと石高を減らされても家臣を減らしませんでした。同じ十万石でも前任の阿部家より家臣が多くなっていました。その上に、阿部家が江戸定府の家臣が大半だったのに対して、奥平松平家では国詰の家臣をそれなりに置いていたことから、転封当初は家臣の居宅が不足しており、天満で新たに武家地を広げたり、桑名時代より狭い居宅を割り当てたりしています(北勢古志や随意稿の著者で歌人の黒澤翁麿の居宅は桑名時代は百七畳でしたが、忍転封後は三十八畳に)。
また転封に伴う多額の負担から桑名時代からの藩校の修進館を再開することもままなりませんでした。

忠国の時は、異国船からの房総半島警固を命じられており、その負担に耐え兼ねて持ち場替えの願いを出しています。その成果か不明ですが嘉永六(1853)年に品川台場の警固を命ぜられています。
慶応四(1868)年一月の鳥羽・伏見の戦いの時には隠居していましたが、新政府への恭順に意見をまとめあげています。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
先に触れたように奥平松平家は文政六年に桑名から転封になり、桑名には白河の久松松平家が、白河には忍の阿部家が入る三方領知替でした。
この領知替は久松松平家の隠居で元老中の松平定信が実入りの良い桑名への転封を望んだともされますが、房総半島警固の負担に耐えかねた久松松平家の当主の定永がより近い下総佐倉(千葉県佐倉市)への転封を望み、怒った佐倉の堀田家が房総半島の警固を引き受けた代わりに懲罰として桑名に転封になったともされます。
ちなみに久松松平家は元は桑名城主でしたが、藩政改革に端を発する御家騒動から越後高田(新潟県上越市)に、数代後に白河に移されています。久松松平家転封後の桑名には、備後福山(広島県福山市。先述の白河から山形を経て備後福山に転封になっていた)から奥平松平家が入っていました。


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