三ツ木城(みつぎじょう)
三ツ木城の基本情報
通称・別名
- 遠元館
所在地
- 埼玉県桶川市川田谷(城山公園)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 足立遠元
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 足立遠元?、石井丹後守?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県選定重要遺跡(三ツ木城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
石戸城(埼玉県北本市)[2.6km]
加納城(埼玉県桶川市)[5.7km]
中釘陣屋(埼玉県さいたま市)[7.5km]
源経基館(埼玉県鴻巣市)[7.9km]
川越城(埼玉県川越市)[7.9km]
大堀山城(埼玉県川越市)[9.0km]
河越館(埼玉県川越市)[9.3km]
源範頼館(埼玉県比企郡)[9.4km]
伊奈城(埼玉県北足立郡)[9.5km]
菖蒲城(埼玉県久喜市)[10.1km]
三ツ木城の解説文
[引用元:Wikipedia「三ツ木城」の項目]埼玉県桶川市にある城山公園の西側に三ツ木城跡がある。城の居住者は源頼朝に仕えた足立遠元である説や岩槻城の太田氏に仕えた石井丹後守である説があるがはっきりと分かっていない。周辺の地名である「城山」はこの城に由来する。[続きを見る]
三ツ木城の口コミ情報
2020年12月30日 ゆず内膳正拓之助
太田道灌陣屋[三ツ木城 周辺城郭]
太田道灌陣屋は現在は養竹院になっており、養竹院は太田道灌の養子で岩付城主・資家が道灌の菩提を弔うため作られた。
元は太田道灌の陣屋があった所で、北上すると松山城、荒川を渡ると三ツ木城、石戸城といった北条方と太田氏の派遣争いの最前線として築かれたと思われ、石戸城や川越城の戦いで太田氏が布陣したとつたわり、名称は陣屋より陣城と言った方がいいだろう。
遺構としては養竹院境内、山門前方に堀跡のような窪みが有るが、遺構で在るかは不明である。また、山門前方に小さな石碑が建っている。
2020年12月30日 ゆず内膳正拓之助
美尾屋氏の館[三ツ木城 周辺城郭]
美尾屋氏の館跡は、現在は広徳寺の境内となっている。美尾屋氏は「平家物語」、「吾妻鏡」にも奥州征伐に美尾谷十郎の名がある。
遺構としては、境内の周囲に水堀のような水路が確認できる。だかこの館の周囲は水田があり、その水路としても考えます。また同境内大御堂裏手にある広徳寺古墳は土塁として使われたかのかもしれない。
2020年12月30日 ゆず内膳正拓之助
広徳寺大御堂[三ツ木城 寺社・史跡]
大御堂は13世紀、北条政子が美尾屋十郎廣徳の菩提を弔うため、美尾屋氏の館跡に建てたものと伝えられています。
建物は、その後、室町時代後期頃に再興されたもので、方三間の寄棟造となっています。
2020年08月16日 ひろき
三ツ木城
公園になっていて城の面影はなかった。
2020年01月28日 Nerikyu
三ツ木城
(三ツ木城跡 説明板)
三ツ木城跡は、現在城山公園となっている低地に使う出た台地上に存在する。
城跡の東、西、北の三方は湿地に囲まれ、南方を底辺として北側を頂点とする三角形の囲郭をなし、東西120メートル、南北110メートルの規模をもつ単郭の平山城である。
現在残されている遺構としては、内外二重の土手のような土塁がみられ、土塁の間には水堀が掘られている。
また城跡の西南隅と内側の土塁の北端は、広くしかも高くなっいるので、物見やぐらのような施設があったと考えられる。城の大手口と考えられる南側は、土塁が一重確認されるのみであるが、かつては深い堀があったのではないかと推定される。
城の居住者については、鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻の太田氏に仕えた石井丹後守とする説もあるが、いずれも定かでない。また、近年の研究では十四世紀に築城されたものとされている。
なお、この城跡は昭和44年に県選定の重要遺跡に指定されている。
埼玉県・桶川市
2014年05月06日 土塁ルイ
三ツ木城
遺構を見ずに帰ってくる人が多いです。城跡は南側駐車場から入って左手にある林の中で、園内の歩道から林の中に分け入った奥に二重土塁があります。