城山砦(しろやまとりで)
城山砦の基本情報
通称・別名
- 上杉砦、柏原城、柏原城山砦、柏原山城
所在地
- 埼玉県狭山市柏原2376他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 上杉憲政
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 上杉憲政、柏原太郎?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口
指定文化財
- 県選定重要遺跡(城山砦跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
河越館(埼玉県川越市)[6.3km]
砂久保陣場(埼玉県川越市)[6.7km]
大堀山城(埼玉県川越市)[8.3km]
田波目城(埼玉県坂戸市)[8.4km]
川越城(埼玉県川越市)[8.5km]
中山家範館(埼玉県飯能市)[8.6km]
毛呂氏館(埼玉県入間郡)[11.0km]
根古屋城(埼玉県所沢市)[11.6km]
今井城(東京都青梅市)[12.0km]
山口城(埼玉県所沢市)[12.0km]
城山砦の解説文
城山砦の口コミ情報
2024年11月10日 主馬首軽足
城山砦
入間川北岸の散歩サイクリングコースからすぐ近くにあります
2024年04月29日 DAI.右馬助
城山砦
ニュータウン分譲地の後背にあるこんもりした山に鬱蒼とした雑木林が茂っているのが城山砦でした。
小田原北条方の川越城を包囲した山内・扇谷上杉連合軍の攻め方の拠点だったようです。ご存知のごとく河越夜戦で攻め方は敗走。結構な防御施設を持ってたと見受けられましたが、夜戦による奇襲で戦わずに敗走したのか、当時を想像しました。
2023年05月23日
城山砦
灌漑水路がめぐり、濃ゆい緑陰といかにもな湿度感と(特にまむし)の注意喚起に怯みました。結構な断崖なのですけれど冬枯れで落葉しそうにない照葉樹林に極まっており、天然の要害感は往時を偲ばせます。害虫等が冬眠する頃に再チャレンジを予定
2023年02月23日 マグロ常陸介祐平
新田砦[城山砦 周辺城郭]
Googleマップで新田砦跡として位置登録されています。写真の土塁の一部と思われる土盛りがありました。1km程離れたところに義貞砦が位置登録されていますが・・・微妙な感じです。新田義貞関連の史跡なのか、近くにある城山砦(柏原城)関連の砦なのか・・・考えるのも楽しいですね。(近年までバス通りに面して土塁が残っていたようです)
2023年02月23日 マグロ常陸介祐平
城山砦
本郭と二ノ郭から構成されています。本郭は崖のある東側を除き三方を高さのある土塁が囲み南西側には虎口が開口、周りを深さのある空堀が巡り、横矢掛かりもよくきいた構造となっています。また、空堀の外周にも1m程の高さの土塁が囲んでいます。二ノ郭は広さはありませんが、稲荷神社のある土塁が西側に残ります。上杉憲政が、川越城奪還の為、陣を敷いた砦との伝承のようですが、短期間の砦にしては立派過ぎる感じを受けました。(発掘調査では築城後すぐに放棄された痕跡ありですが)
2023年01月27日 武蔵守のむげん
城山砦
非常にコンパクトだが本丸跡地、周囲の空堀らしき遺構が確認できる。
2022年11月09日 武蔵守マクシミリアン
城山砦
駐車場は県道260号から入ってきた道(途中から未舗装)が、林(城跡)に突き当たった場所に数台は止められます。トイレはありません。
土塁や空堀があり曲輪と分かります。中心と思われる辺りに、城山稲荷が祀られています。
2022年08月23日 国府左京大夫城介
女影原古戦場跡[城山砦 碑・説明板]
女影原(おなかげがはら)の戦いは中先代の乱における戦いの一つです。
建武2年(1335)に、信濃に潜伏していた北条高時の遺児北条時行は、諏訪頼重らに擁立されて挙兵します。信濃の守護小笠原貞宗や、国司清原真人某を撃破し、関東へ進撃します。
そして、同年7月20日に、女影ヶ原にて、足利直義が派遣した関東廂番(鎌倉将軍府の近衛部隊)である渋川義季・岩松経家の軍と激突します。勢いにのる北条時行方により、戦は敗北し、7月22日に渋川義季・岩松経家は自刃します。その後、小手指ヶ原、井手の沢において、鎌倉将軍府の軍勢を続けて破り、北条時行は7月25日に鎌倉を奪還します。しかし、足利尊氏によって20日程度で鎌倉を奪い返されてしまい、中先代の乱は終結します。
霞野神社あたりが、女影原古戦場と言われています。
周囲の地形は往時と多少の違いはあると思いますが、小畔川の支流を挟んで、両軍は対峙したと思われます。地形的には、渋川・岩松軍が陣取ったと思われる南側がやや高くなっています。
因みに、渋川義季の娘・渋川幸子は、二代将軍足利義詮の正室となります。ただし、彼女は足利義満の側室の子でありますが、養母として義満を育て、義詮の死後、若年で義満が継ぐと、その後見を務め、「大方禅尼」「大御所渋川殿」と呼ばれています。
丁度、今週(2022/8/22の週)のジャ〇プの「逃げ上〇の若君」で、この女影原の戦いが始まり、どのような展開になるのか楽しみにしています。
【アクセス】
武蔵高萩駅から徒歩10分程。
【写真】
①石碑
②説明版
③霞野神社
④小畔川の支流(右側の林の部分が霞野神社)
⑤霞野神社入口から北側を望む
2022年05月01日 長森原
鎌倉街道上ノ道・影隠地蔵[城山砦 寺社・史跡]
鎌倉街道上ノ道沿いに佇む影隠地蔵。かつて木曽義仲の嫡男・清水冠者義高が、追手から逃れる為に街道傍らの地蔵堂の陰に身を潜めた故事にちなんで建立されました。鎌倉街道上ノ道は、鎌倉の化粧坂口から発して、遠く義高の故郷である信濃まで通じていました。
なお城山砦は、この鎌倉街道上ノ道の支道の、入間川渡河点(奥富八丁の渡し)を押さえる為に造られたようです。最後の写真は、所沢から狭山にかけての鎌倉街道図。城山砦は右端の入間川沿いの所です。
2021年12月21日 武蔵守与作兵衛
城山砦
遠くから観るとここだけこんもりとした森のようで、いかにも何かありそう、という雰囲気です。
駐車場の表示はありませんが、西側にスペースがあり車4~5台が停められます。
西側からアプローチすると平坦ですが、入間川の河岸段丘の縁に立地しているので、東側は崖になっており見る場所により大きく印象が変わり面白いです。規模は小さいですが西側には空堀が残っています。
その名の通り城ではなく砦という佇まいでした。
2021年08月26日 乱会
城山砦
柏原城とも。遺構の残存度は高く、よく整備されています。横矢掛かりも確認できます。
かの有名な河越夜戦(夜戦とは言っていない)の際に、山内上杉軍の陣城として使われた可能性はあるかと。
2021年03月29日 やむ
城山砦
狭山市柏原にあり、柏原城とも言う。住宅街の中のこんもりとした丘にある
2019年05月16日 長森原
城山砦
本郭。地元の方の話によると、「50年前にはこの城山から本当に川越の方まで見渡す事が出来た」との事。
絶壁の段丘崖側には土塁は有りません。
2019年05月14日 愛甲太閤【相模の狂人】
城山砦
本郭の西側を固める土塁は高さ3メートルほどあり、南へ突き出しています。そして突き出した部分の周囲が見事にカーブした空堀で囲まれて防御されています。先端は物見台として使ってたのでしょうか…
2019年05月12日 愛甲太閤【相模の狂人】
城山砦
城郭南東側にある入口から登ってゆくとすぐに本郭―二の郭間の空堀に誘導されます。写真は空堀の突き当りから入口側を振り返ったところで、一見ただの遊歩道ですがシッカリと空堀しています。簡素な縄張りながら、この空堀で両側の曲輪と正面の土塁上から袋叩きに出来るなど、考え抜かれています。★本郭虎口は空堀の突き当りまで進んで、すぐ右です。
2019年04月24日 きっず
駐車スペース[城山砦 駐車場]
駐車場ではありませんが、2・3台停めれるスペースがあります。
2015年02月08日 野呂利左衛門督休三
城山砦
現存遺構は本郭と二ノ郭(馬出曲輪とする説も)からなる。東側と南側は入間川の河岸段丘の急峻な斜面に区切られている。本郭西側の堀と土塁は折りが入り、本曲輪南西角は横矢掛かりにするため突出している。
二ノ郭は現存の状況では本郭よりも土塁の高さが低く、堀も浅い。この曲輪の土塁上に城山稲荷神社がある。
発掘調査が行われているが、本郭から古代の住居跡が検出されているが、中世のものは出ておらず、遺物もほとんど出ていない。
2014年05月06日 土塁ルイ
城山砦
地味で小規模ですが堀、土塁などの残存遺構が楽しめました。
現存する面積は約7,000平方メートルで、入間台地のやや舌状の部分にある、沖積面から約10メートル上の河岸段丘に、東から本郭、ニノ郭と造られている。本郭は崖面以外を高さ約3メートルの土塁に囲われ、その外側には現存する深さが約3メートルの空堀がある。
また、その更に外側に、高さ1メートルの土塁状の高みが今でも確認できる。ニノ郭は、土塁の残存と考えられる高みの上に、現状は稲荷社が祀られている。西側には深さ約1メートルの堀が残っており、狭いながらも郭を構成していたことがわかる。
平成10年度に本郭周囲のほ場整備に伴って発掘調査が行われ、最も外側の土塁状の高みの外に、更に深さ約3メートルの堀が検出された。堀の底や壁には、堀を掘ったときについたと考えられる鍬の痕も残っていたため、砦は、造られて間もなく放棄された可能性が出てきた。検出された堀は保存するために埋め戻され、現在は道路となっている。
平成18年度に、学術調査のために行われた本郭の内側の空堀の調査では、現況より更に約2メートル深く掘られている形跡が確認された。また、深い堀が崩れないように押さえるための修復したような跡が検出された。
さらに、平成22年度の小口部分の確認調査では、中世のカワラケ(小皿)の小破片が出土している。