今井城(いまいじょう)
今井城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 東京都青梅市今井1
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 今井氏?
築城年
- 大永2年(1522)以降
主な改修者
- -
主な城主
- 今井氏
廃城年
- 天文20年(1551)頃
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(今井城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
藤橋城(東京都青梅市)[1.5km]
勝沼城(東京都青梅市)[4.0km]
中山家範館(埼玉県飯能市)[5.9km]
辛垣城(東京都青梅市)[8.5km]
根古屋城(埼玉県所沢市)[8.9km]
二宮城(東京都あきる野市)[9.3km]
真福寺城(東京都武蔵村山市)[9.5km]
高月城(東京都八王子市)[10.8km]
戸吹城(東京都あきる野市)[11.1km]
山口城(埼玉県所沢市)[11.5km]
今井城の解説文
[引用元:Wikipedia「今井城」の項目]
今井城(いまいじょう)は、東京都青梅市にあった日本の城。青梅市指定史跡。
概要
山根通り沿いに存在する。石垣と竹が綺麗に残っており、歴史を感じられる。石垣の周りは宅地化されてしまったため、住宅地である。城の構造には片倉城や小机城との類似が見られる[1]。
歴史
児玉党の今井氏が城主であったと言われている。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に際して今井氏は反乱側についたものと見られ、乱の後は附近に三田氏が台頭する中、今井氏は所領を没収されながらも細々と続いた。後の発掘調査によれば、文明14年(1482年)以降のいずれかの時点で城の墳墓が埋められ、その上に新しい城が築かれた痕跡があり、第三の勢力の進出を示唆している。この第三の勢力とは北条氏であり、新城築城は大永4年(1524年)の北条氏綱による江戸城攻略以降のことと考えられる。その後北条氏が上杉氏と対峙する中、今井城は北条氏が攻略線上に等間隔で配置した支城の一つとして機能していたが、天文20年(1551年)の平井城落城でその機能も無用となった。今井氏は天正年間までは続いていたとされるが、その後は城の存在は忘れられ、江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』にも「堀ノ内」の地名があること以外は何の言及もない[2]。
1953年(昭和28年)11月3日付けで市指定史跡となった。
アクセス
- 青梅線 河辺駅より西東京バス
- 西武池袋線 入間市駅より西武バス
- 入間市方面からは入間市内循環バスを利用し、原今井で下車しアクセスすることもできる
関連文献
- 小室栄一「中世豪族館城の研究 : 関東地方に於ける館址の実測とその復原試論 (昭和三十三年十一月十二日 会員 大類伸 紹介)(https://doi.org/10.2183/tja1948.17.75)」『日本學士院紀要』 17巻1 号 p.75-129, 1960-04, 日本学士院, ,
- 学習院大学輔仁会史学部 編『今井城址 東京都青梅市に於ける中世城郭の調査』学習院大学輔仁会史学部 1967
- 奥田直榮「今井城址――青梅市における中世城郭の調査――」『多摩郷土研究』第38号、多摩郷土研究の会、1970年、1-18ページ。
- 池田誠「城郭を探る 勝沼城と今井城(https://adeac.jp/tamashin/viewer/mp001000-100010/tamanoayumi010/?p=43)」『多摩のあゆみ』第10号、多摩中央信用金庫、1978年2月、41-45ページ。
- 田中祥彦「今井城」『多摩丘陵の古城址』有峰書店新社、1985、281-287ページ
- 西股総生『「城取り」の軍事学 築城者の視点から考える戦国の城』 学研マーケティング 2013
- 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref=}}
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今井城の口コミ情報
2026年03月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
今井城
さて、今回の口コミは信濃を離れてジモティーとしてDEEP WEST、三多摩を応援!東京で中世城館を見たけりゃ都心の喧騒を離れてこっちに来るがいいさ。でもびっくりすんなよな、単線の区間もあったりするからな。前から電車が来たら正面衝突しちゃう…とか想像しないように…ちなみにリア攻め中にお腹が空いたら東京亭か南京亭だ。赤い大きな看板が目印、24時間営業だし、かさかさになった冬場の肌も光り輝く植物油で隅々まで潤うぜ。食後には五日市街道を爆走、街道沿いの秋川ファーマーズセンターに寄ってトウモロコシを買って食おう!南青山で育った上品なおいらはやった事無いんだけど、ワイルドな皆さんなら生でも皮ごとばりばりイケる筈…
…今井城は霞川北岸(左岸)、加治丘陵の南端、標高約164mの舌状台地東縁上平場に立地する居館城、もしくは砦です。南麓の山根通りからの比高は10m位でしょか。加治丘陵には上州道の古道が南北に通り、城地は正にそのとば口に当たっている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場所に毎回困る訳だが、南西側の今井柳田自治会館へと通じる狭隘な道から城域直下に捨てられる事に今更ながら気付いた。
中世の青梅市は武蔵国杣保に含まれる地域であった。杣(そま〜林業)の保である事を表す地名であり、保であった事から元は国衙が経営する一帯であったようだ。ちなみに西多摩地区の歴史は徳川氏の関東加増移封以前の事が殆ど不明であり、断片的な史料から実態を推測する以外に手立てが無い。
青梅市塩船にある真言宗醍醐派の別格本山、大悲山塩船観音寺が所蔵していた大般若経二百巻の内、応安六年(西暦1373年)八月二十日の年記がある奥書には、「武州三田領杣保内塩船村」と記されていた事(「新編武蔵風土記稿」)から、杣保の大部分が平姓を自称する三田氏の所領であった事に間違いは無いが、該地の今井に拠ったのは児玉党(有道氏)の一氏とも伝わる今井氏である。
築城年代は不明、築城者は前述した今井氏と伝わる。同氏には武蔵七党の一つ、児玉党の一氏とする説の他、木曽義仲四天王の一人、今井四郎兼平の後裔とする説があるが、後者は今井の地名に託けた仮冒に過ぎないと思われる。
「今井」は、古い堰(古井)に対する新しい堰の意か、新しい村落(今居)の意、どちらかと考えられ、全国何処にでも見られる地名だ。今井から霞川に沿って東方へ進めば、村山党の金子氏の本貫地、入間郡金子郷は指呼の距離、西方には西党の平山氏の一族が拠った藤橋が隣接している。
児玉党は南北朝時代に南朝方であった事から後に弱体化し、応永二十三年(西暦1416年)には本宗家の本庄氏が「上杉禅秀の乱」の際に禅秀(氏憲)方に与して凋落した。今井氏の没落もこれとほぼ時を同じくしていたと考察されており、族滅しないまでもその独立性は殆ど失われたようだ。発掘調査によって土塁の地下から出土した板碑の年号は、正和元年(西暦1312年)から大永二年(西暦1522年)の間に亘っているが、少なくともこれ以降に領主層の完全な交代があり、現在見られる今井城はその上に新たに築城し直されたとも推測されている。この時の築城主体は後北条氏であろうか。
お城は市中郊外の奇跡とでも言うべき。アプリの登録城、小机城や片倉城の小型版が近所の裏山にそのまま転がっている。遺構については語らないが、推測されたとおり今井氏の館城を廃した後に砦として再構築したものであろう。此処で見られるのは居館地としてのそれではなく、むしろ要害としての縄張に近い。廃城年が定かではないが交通の要衝でもあるが故に、各地へ出張する人数を整える宿城として後北条氏時代を通じて維持され続けた印象すら窺える。雑木林の中の宝物、多くの方に訪ねて頂きたい逸品だ。
発掘調査の結果から、前述した板碑の他、宝篋印塔、骨蔵器が廃棄された状態で出土し、現行の土橋の地下からは箱堀が検出されている。城は一度埋められたのであろうか。従って今井氏時代の面影は殆ど見られないとも言える。新たな支配層はその痕跡を残す事すら許さなかった。
※調べていて思うが非常に難しい地域だ。室町時代の武蔵守護代、大石氏(遠江守系〜入間郡が本拠であり、「上杉禅秀の乱」の後には武蔵の国人衆の再編を推し進めた。)との関係や、近隣の三田氏の台頭も考察の内に含まれるべきであり、戦国時代には北条氏照が差配した所である。何れにせよ今井氏の舵取りは難しかったろう。
※今井氏が開基とも伝わる時宗の寺院、今井山正福寺がリア攻めマップにスポット登録されている。墓所には同氏の物と伝わる五輪塔と宝篋印塔、23基が残っているとされるが、この内の6基については歴代住職のものだと思う。
2025年02月13日 マグロ常陸介祐平
金子十郎家忠館[今井城 周辺城郭]
治承4年(1180年)の衣笠城合戦では、畠山重忠などと共に平家方として三浦氏と戦い、後に源頼朝に従い、義経軍に属し活躍した金子十郎家忠の館と伝わります。金子氏はこの地の他、伊予や播磨の地頭となり、八王子城の金子曲輪を守った金子家重や毛利家家臣の金子氏も家忠の子孫となります。
戦国時代まで金子氏は周辺にいたと思われますが、館は霊園となり、遺構らしきは全く見ることができません。武蔵風土記稿にも館に関する内容は記載されていないので、江戸時代後期には遺構が消滅していたのかもしれません。1km程東にある高養寺は天正15年に亡くなった金子筑後守家定の開基で、館のあった木蓮寺村の江戸時代の名主の加藤氏も金子氏の末裔とされています。
現在は廃寺となっていますが、この地にあった瑞泉院は家忠の妻の畠山氏の開基とされ、戦国時代末期から江戸時代初期に造られた金子氏の宝篋印塔や江戸時代に作られた位牌が残っています。
2025年02月12日 マグロ常陸介祐平
今井城
今井氏のお城と伝わります。
新編武蔵風土記稿には、小字として堀ノ内とあり、お城に関する記事は記載されていませんが、村内にある正福寺の項で本尊の阿弥陀如来の足の裏に応永2年(1395年)今井四郎為菩提とあり、本堂の西側には大小17基の五輪塔があり今井氏の古墳と伝わるが子孫がいないので是非をしらずとしています(実際には23基残っている)。今井氏は今井兼平の子孫とも児玉党の今井氏とも元から今井と呼ばれた当所の地名を名字とした豪族などの説があるようで、実際のところよく分かっていないようです。お城の土塁からは鎌倉時代末期から戦国期にかけての板碑や宝篋印塔などが打ち捨てられたような状態で発見されていることから、16世紀前半に勢力の交代があったと考えられているようです。また、今残るお城の遺構は16世紀半ば以降に改修されたと考えられているようです。
お城は空堀に囲まれた3つの郭で構成され、主郭は東側を除き土塁が囲み、北側の3郭は南側の土塁は残っていますが郭の北側は傾斜地で改変されているように思われます。西側の2郭は土塁がなく、郭の南側が象の鼻のように城の南側を守る土塁として延びており、主郭南側の空堀に誘導する、虎口のように開口する特徴的な構造となっています(写真2,3枚目)。
住宅地にあるお城ですが、遺構の状態は良好です。
2025年01月28日 mootze
今井城
中規模ながら、虎口、堀切、本郭の土塁が良く残ってます、東側虎口から堀底を歩きながら、本郭を、攻めようとすると、横矢がかかるような想像がふくらみます、規模が小さいので、大軍で攻められたら、ひとたまりもありませんね 戦国初期の、いいお城です
2024年01月29日 櫻
今井城
今井城は南から行けます。今井柳田自治会館の南東の、私道のような道を北に向かうと、草地に出ます。草地の北西端に今井城の看板と埋もれそうな階段があります。
2023年10月29日 後志守あったらもんだ
今井城
最寄りの八高線金子駅から徒歩15分、手つかずに保存されているワイルドさが良い。足場はわるいがほぼ全域歩ける。
2023年03月12日 みよ釆女正
今井城
圏央道から直ぐ行けました。駐車場はありませんが、ちょうど一台置ける所があります。え〜こんな住宅街に!本丸も、堀も、残ってる!思わず、城の中を走ってしまいました。甲冑を着ていては、堀は越えられないなぁと思いを馳せて、堀を超えて本丸に辿り着いた時は感動🥺
2022年10月23日 摂政丸
今井城跡入口[今井城 碑・説明板]
青梅市によるオフシャルな入口の看板位置を追加しました。
車道にはなんの案内もありません。
城の腰公園から城に向かって突き当たりすぐ左の側道を入ったところです。
城マークとは空堀で隔てられている曲輪に出ますが、空堀の一部に昇り降りが繰り返された形跡があり、そこからのアクセスが楽かと思われます。
2021年06月14日 マークⅡ宮内卿政宗
今井城
八高線金子駅から徒歩で、登城を目指しました。金子橋バス停を通過後、登城口が分からない~。マップを頼りに歩き回り、何とか「今井城入口」の看板を見つけました。道路から離れた住宅の奥にあり、皆様ご注意あれ❗
2019年06月04日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
今井城
空堀と土塁が縦横にめぐる、素晴らしい遺構の世界が、住宅地に囲まれた小さな森の中に眠っています。定期的に草刈りをして下さっているようですが、整備の手がほぼ入っていないらしく、廃な雰囲気を満喫出来ます。★駐車場が近くに無いうえに周囲が住宅地で路地も狭く、路駐なんてゼッタイ!ダメ!の雰囲気、車で攻めると駐車場所に苦労します。
2013年10月19日 大宰帥一之介
今井城
JR青梅線河辺駅北口から西武バスで約15分、「金子橋」バス停下車徒歩5分ほどです。バスは1時間に1本です。
住宅脇に一ヶ所案内板が立っていて、そこから登城します。鬱蒼とした森ですが、見事な空堀が残っています。土橋も2箇所確認できました。
藤橋城まで近いので、一緒にまわることをお勧めします。









