辛垣城(からかいじょう)

辛垣城の基本情報

通称・別名

西城

所在地

東京都青梅市二俣尾4、成木8

旧国名

武蔵国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

三田綱秀

築城年

永禄年間(1558〜1570)前期

主な改修者

主な城主

三田氏

廃城年

永禄6年(1563)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(辛垣城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

勝沼城(東京都青梅市)[5.2km]
藤橋城(東京都青梅市)[7.3km]
今井城(東京都青梅市)[8.5km]
戸倉城(東京都あきる野市)[9.9km]
網代城(東京都あきる野市)[10.4km]
中山家範館(埼玉県飯能市)[10.6km]
檜原城(東京都西多摩郡)[11.8km]
戸吹城(東京都あきる野市)[12.0km]
二宮城(東京都あきる野市)[12.7km]
高月城(東京都八王子市)[14.2km]

辛垣城の解説文



辛垣城(からかいじょう)は、東京都青梅市にあった日本の城。青梅市指定史跡。

概要 

三田氏により築かれた山城。上杉謙信の関東侵攻後後北条氏を離れ上杉方に付いた三田氏がその峻険な地形を頼んで拠り、名族三田氏の終焉の地となった。

歴史・沿革 

  • 永禄年間初期、三田綱秀によって築かれた。ただし、永禄年間以前より存在したという説もある。
  • 永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の綱秀は後北条氏を離れ上杉方に付いた。
  • 永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した綱秀が勝沼城から居を移した。
  • 永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照に攻められ落城した(辛垣の戦い)。

構造 

雷電山から延びる尾根上に聳える、独立性の高い円錐形様の辛垣山山頂付近に郭を重ねる。北方を除く三方の尾根上には郭が認められ、特に南に延びる尾根上には馬洗い場と呼ばれる比較的大きな郭が設けられている。

考古資料 

遺構

山頂付近に郭、空堀、土塁、縦堀等の遺構が残るが、江戸期以降採石場として利用されたため、一部遺構は旧態を失っている。

観光 

アクセス

  • JR二俣尾駅下車。

周辺 

  • 青梅丘陵

参考文献 

  • 『資料青梅市の中世城館跡』青梅市教育委員会 1990年

辛垣城の口コミ情報

2026年03月12日 いれぶん武蔵守
堀切・土橋・曲輪[辛垣城  遺構・復元物]



御岳城については青梅市教育委員会発行の「資料青梅市の中世城館跡」に中田正光氏により詳しく記されていて、そこで紹介されているのがこの曲輪4とされる城郭遺構です

他の遺構の殆どが主郭である御嶽神社を直接守るような尾根上にあるのですが、ここだけは旧学校跡・現ビジターセンターの裏山にあたる付近にあり、ピークにあたる曲輪の外側に堀切・堅堀を持つ形状です。まさかこんな所にあろうとは思えなかったのですが、現地で見てみると明らかに人の手が入った形状をしており、城郭遺構であるとしている事に納得するしかありません
ピークの曲輪の中央部分には祠があり、地元の人々によって大切に扱われている事を知る事ができます

興味を持たれた方は、ビジターセンターの係員の方に、行き方などを教わるとよろしいと思います。現在はピークの曲輪とその外側の堀切は容易にみる事ができますが、ビジターセンター背後にある下の方の曲輪群は行ける状態ではないとの事でした

2026年03月10日 いれぶん武蔵守
山門(盾の城移築城門)[辛垣城  遺構・復元物]



現在も修復中のようですが、茅葺屋根の小屋組がつぶさに拝見できる大変貴重な遺構です
三田氏菩提寺諸堂再建に力をふるった天江東岳の名前がここでも登場しています
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市有形文化財
明白院山門

本寺は日向山と号し、本尊は勝軍地藏である。天正年間(一五七三〜一五九二)天江東岳を開山として、勝沼城主三田氏の遗臣野口刑部丞秀房を開基として創立された。
この山門は、日向和田の館(楯)の城にあったものを明白院建立の際ここに移したと伝えられ、木造茅葺一間一戸の四脚門として市内に現存する山門の中で最も古構を遺す一例として貴重である。

昭和四十三年十一月三日指定
青梅市教育委員会
(説明看板全文)

2026年03月10日 いれぶん武蔵守
海禅寺[辛垣城  寺社・史跡]



三田氏菩提寺であり歴代の墓・供養塔を在しています。滅亡後30年近く経ってから諸堂が再建された事に地域との深い繋がりが感じられます

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市史蹟
瑞竜山海禅寺

この寺は群馬県白井雙林寺の末で、本尊は釈迦如来である。はじめ長勝山福禅寺と号し寛正年間(一四六〇〜六五)雙林寺の第二世一州正伊を開山としたという。天文の頃五世太古禅粱は市内下村の生まれ、武井氏の出で学徳が高く、領主三田綱秀の信望が厚かった。そのことから当寺は三田氏の菩提寺となった。永禄六年(一五六三)辛垣落城の際兵火にかかり、のち天正十八年(一五九〇)第七世天江東岳により諸堂が再建されたが、江戸時代になって再び火災にかかり、現存の本堂は元禄十一年(一六九八)の再建である。境内には都指定の三田氏供養塔があり、市重宝三点を蔵している。

昭和三十年十一月三日指定
青梅市教育委員会
(説明看板全文)

2025年12月07日 昌幸近江守更に吉
日向和田要害山城[辛垣城  周辺城郭]



青梅市の日向和田(ひなたわだ)要害山城は多摩川に突き出た台地に築かれ、2023年に城と認定されました。城友さんに教えてもらって今回行ってきました。

歴史などもこれから研究されていくのでしょうが、青梅一帯を治めていた三田氏から北条氏と受け継がれ使われていたと思われます。史料が少ないながらも先人様が調べております。詳しくはそちらをご覧になってください。

石灰採掘で城の北側は失われたものの、立派な堀切や郭が残っています。多少なりとも“お城学”をかじった私達は「お城じゃん」と思うのかも知れませんが、地権者はどうなのでしょうね。間伐をされていて出入りはあったと思うんですが全く気づかなかったのか、それとも隠していたのか。令和の世になってもあるところにはあるものですね。

車は明白院さんにお声がけして駐車させていただきました。そこから約5分“福徳神社”の石碑が立つ階段を上った先が城跡です。

【写真の説明】
①最初の郭にある土塁
② 最初の郭の土壇のような遺構
③ 堀切。大きい
④もう一つの堀切
⑤広い平地と奥には最高所の平地。現状だと1郭と2郭になると思われる
⑥1郭には90度に曲がる動線(土の盛り上がり)が造られているような…
⑦2郭を外から。腰郭でもあったかな?写真左側は石灰採掘場
⑧2郭から続く大土塁のようなもの。写真右側が石灰採掘場

※専門家の研究がなされてないので、見たまんまの印象を好き勝手に言ってます。人によって感じ方は変わりますのでその点はご容赦を。

2025年07月25日 マグロ常陸介祐平
楯の城[辛垣城  周辺城郭]



日本城郭体系によると、青梅郷土史を出典として辛垣城の東木戸と称し、三田氏の部下が城砦を築いて守ってきたところであると伝えているとしています。三田氏が滅びると、武田氏の旧臣で、武田氏滅亡後に北条氏に仕えた田辺清右衛門惟良の館となり、北条氏滅亡後は徳川氏に仕え、この地にそのまま居住し、子の平四郎、孫の宇太夫と続いています(風土記稿と金剛寺の伝承と思われる)。寛政重修諸家譜では、田辺重真(=惟良)が武田氏滅亡後、甲斐で家康に仕官し、甲斐国小田原村の旧領を安堵され、小田原の役後に関東に移り(おそらく楯の城)甲斐金山奉行を勤めたとします。子の新兵衛守秀(惟重=平四郎)は、駿府城築城の際に材木切り出しの奉行を勤め、孫の安直(清右衛門惟良=宇太夫)は、祖父重真と青梅(楯の城)に住んでいた際に、鷹狩に来た家康に謁見し、秀忠に仕えるようになり、上総に180石を賜り、安房の代官や残物奉行、浅草御蔵奉行などを歴任したとしています。祖父と孫の名前が、混同していますが、どちらが正しいのでしょうか。風土記稿では、その後の話として、城跡は三田氏の旧臣で、北条氏照の感状など8通の文書が伝わる名主の野口氏に田辺氏から預けおかれ、宝暦11年(1761年)の伊奈氏家臣の豊嶋庄七による検地後には、畑となったとしています。

お城は、郭部分が青梅線により削られていますが、折れを伴う空堀や土塁がよく残り、土橋も確認出来ます。東西が自然地形の谷になっており、要害性を感じる立地となっています。勝手な想像ですが、江戸時代初期の旗本の陣屋で、廃城後に畑となるには、地形や立地に少々違和感も感じられ、麓に居館部があったのではないかと思えてしまいます。

地図を見るとすぐ楯の城の北側に「矢倉台(物見櫓)」があるので、歩道をそのまま登ってみました。墓地をすぎたところで道は途絶え、結局は直登することになりました(廻ればちゃんとした歩道があります)。砦という感じではなく、物見や狼煙台といった感じの狭い削平地でした(写真6,7枚目)。

また、楯の城の城門は野口氏の開基した明白院の山門として移築されています(写真8枚目)。青梅市内にある金剛寺には、田辺清右衛門惟良の画像が東京都の文化財として保存されています。寛政譜によると、重真・安直のどちらもこのお寺に埋葬されたことになっていますが、死亡時期や享年など、客観的には安直の画像のように思えます。

2025年06月07日 龍馬備中守【】
楯の城[辛垣城  周辺城郭]



東京都青梅市の日向和田にある【楯の城】♪城の直下には青梅街道が走り、それと並行する様に多摩川が流れます♪山からの尾根の先端部で、東西を巨大な谷で守られています♪現在、その先端部は住宅地になっていますが、高台であり、ココもまた城域でしょう♪

武蔵・杣保の地を治めた三田氏関連城郭となります。戦国時代の関東ですが、越後の上杉謙信と、小田原の後北条氏が覇権を争います♪上杉謙信が関東へ出張ると、周辺の諸大名や国衆は、上杉謙信に従い、越後に帰ると、後北条氏に従う、という事が続きます。これにより、関東における上杉謙信の勢力は、次第に切り崩されていきました。後北条氏が関東に勢力を拡大する中、三田氏もまた、当初は従属していますが、やがて山内上杉氏との旧来の関係を重んじて、独自の立場を取り始めます。この為、三田弾正忠綱秀は後北条氏と対立し、勝沼城を捨てて奥多摩の辛垣城に拠り、抗戦していくという訳であります。という事は、再三の話であります。この様な不安定な情勢の中で、杣保の地の奥地へと追いやられていく訳です。その過程の中で出来ていったのが辛垣城であり、桝形山城であり、日向和田要害山城であり、矢倉台であり、そしてこの楯の城なのでしょう。

楯の城は、永禄5年頃(1562年)に三田弾正忠綱秀が築城したと伝わります。別名を館の城、東木戸と呼ばれています。東木戸とはまさに、三田氏の詰城である辛垣城から見て、東側の要的な意味合いなのでしょう。東側の虎口、番所であり、青梅街道を監視、封鎖する役割を果たした事が想像できます。
因みに、辛垣城の付近、二保尾に西木戸と言う場所も残ります。東木戸と西木戸、それぞれ辛垣城を守ったのでしょう。三田氏領の入口を守る木戸として、重臣が守備していたと云われます。

永禄6年(1563年)辛垣城の落城により、三田弾正忠綱秀は逃亡の末に自刃し、平将門の後裔を称する三田氏の嫡流は滅んでいます。但し、三田弾正忠綱秀とは同族にあたる、三田氏の子孫で、徳川氏旗本となった三田氏や、三田三河守某の子・綱勝は、北条氏照に属して、下総国小山城を守ったりもしています。
実際、北条氏照に仕えた者の中で、三田氏旧臣の師岡山城守将景は、勝沼城を与えられています。その頃の楯の城も、その支配下にあったと思われますが、甲斐国の武田氏が滅ぼされた天正10年(1582年)には、武田氏の旧臣という田辺清右衛門惟良が北条氏照に仕え、楯の城へ移り住んだと伝わります。
田辺氏は、塩山に屋敷を構えた黒川金山衆の中にその名があり、天正18年(1590年)後北条氏が滅亡すると、田辺清右衛門惟良は、新しい関東の国主となった徳川家康に仕え、この地で没しています。

楯の城の屋敷門は、明白院の山門として移築されたと伝わります♪

東西を深い谷で守られて、南側は空堀、虎口、土塁と良好に遺構を残します♪

2025年06月01日 龍馬備中守【】
日向和田要害山城[辛垣城  周辺城郭]



東京都青梅市の日向和田にある【日向和田要害山城】♪武蔵国の西側である青梅市、多摩川上流域に立地し、甲斐国との国境にあたります♪眼下には青梅街道が走り、南側には多摩川が西から東へ蛇行しながら流れます♪蛇行する多摩川沿いの、南側に突き出す山間部、標高288m付近に、日向和田要害山城は立地します♪日向和田集落は、長い年月をかけて多摩川が侵食した谷の、北側に面した台地にあり、その北側の山間が城郭です♪この日向和田という集落の地名由来は、陽当たりがよい事からきています♪一方、日向和田とは多摩川を挟み対岸にある集落は、かつて日影和田と呼ばれていました。
現在は、縁起が悪いという事で、和田と呼ばれています。余談ですが、日影和田は江戸時代には梅の里として知られており、江戸にも出荷されていました♪

さて♪日向和田要害山城の、築城年代や築城主などは不明です。2023年に発見された新城であります。なお、三田氏に縁のある、矢倉台(物見)が真北の山間部にある事や、1561年頃に三田弾正忠綱秀が築城したとされる楯の城などが地内にあり、日向和田要害山城もまた、三田氏関連の城郭であり、北側に矢倉台がある事を考えると、街道封鎖の為の城郭かと思われます♪または、東側にある楯の城の詰城としての考え方も出来るかな〜??何れにせよ、日向和田要害山城は、規模感の大きな二重堀切を完備させ、東側からの侵入を想定した造りであります♪北側は土取りの為に破壊されており、形状は分かりませんが、矢倉台との連携があったのでは無いか?という事は想像出来ます♪
また、三田氏が滅亡した後は、北条氏の領域となっており、北条氏に属した城郭として機能した可能性は多いに考えられます。特に甲斐国との境目に当たる為、武田氏へ向けた防御ラインとも考えられます。

15世紀後半から16世紀後半の武蔵国の戦乱は、多摩地方にもその影響を及ぼしています。(享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱、北条氏と両上杉氏・上杉謙信との抗争など)三田氏の抑えた杣保エリアもまた、上杉方に付いた三田氏VS後北条氏の抗争(辛垣の戦い)と、三田氏の滅亡という形で幕を閉じています。

地内には曹洞宗明白院があるのですが、後に三田氏の家臣である野口秀房が当地で帰農し、曹洞宗明白院を開基。三田家の位牌を納めたと伝わります。

また、時間が無くて行けてないのですが、矢倉台(物見)は、三田氏の本城である辛垣城から南東約3キロメートルに位置し、戦略上重要な場所であったと伝わります。『武蔵名勝図会』には『柵跡、ここには二俣尾の城より峰続き、三田氏居城のころ、この山に砦を構えて遠見の地なりしゆえ、この地をまた櫓台という』と書かれています。(現地案内板より)

杣保(現青梅市)を支配した三田氏♪勝沼城や矢倉台、楯の城、辛垣城や枡形山城など、遺跡が多く残ります。日向和田要害山城もまた、三田氏の城郭だったのでしょう(妄想)。三田氏関連遺跡巡りは、もう少し続きます♪

2025年05月31日 龍馬備中守【】
桝形山城[辛垣城  周辺城郭]



東京都青梅市の仁保尾にある【枡形山城と物見山】♪三田弾正忠綱秀が築城した、詰城である辛垣城とは、尾根続きで繋がります♪桝形山城は、辛垣城の500メートル南東にあり、近場に立地しますが、その歴史詳細は不明であります。

『武蔵野歴史地理』によると、『築城者は三田弾正忠綱秀で辛垣城と同時期に辛垣城の支城として築かれた』とあります♪三田氏の前線であり、東側にある勝沼城だけでは、往時の緊迫した軍事情勢から(対、後北条氏)心許ない為に、詰城として、三田氏の領地である武蔵国・杣保(青梅)の奥まった場所に、辛垣城と桝形山城を築いたという事なのでしょう。

その他には、桝形山城の築城形態は辛垣城と全く異なり、1562年~1569年に滝山城主・北条氏照が武田軍の来襲に備え、桝形山城を築城したという考察や、北条氏照が三田氏の辛垣城を攻める為の付城としたとする考察など、様々な憶測があります。

この時期の三田氏にクローズアップしてみます♪辛垣城の戦いに至るまでの三田氏の動向ですが、山内上杉氏とは主従関係にあり、三田弾正忠は顕定に従って、各地を転戦しています♪
当時の山内上杉氏は、扇谷上杉氏と並ぶ関東管領家の一角であり、武蔵や相模を中心に勢力を持っていました。文明10年(1478年)上杉顕定から出された書状は、宛名の三田弾正忠氏宗への敬意が強く、三田氏は上杉氏から重んじられ、高い地位にあった事が伺われます。三田氏は代々、杣保を根拠地として、やがて山内上杉氏の一武将として台頭し、やがては高麗郡・入間郡方面までを領有して、勢力を伸ばす様になっていきました♪
関東ではこの頃、両上杉氏(山内上杉家VS扇谷上杉家)が抗争を続ける中で、次第に頭角を表して行くのが伊勢宗瑞(北条早雲)でありました。北条早雲は駿河今川氏の客将から身を起し、掘越公方を討って伊豆を支配下に置くと、相模に進出。扇谷上杉氏を支援して、着々と地盤を固めていきます。16世紀にもなると、武蔵にまで勢力を拡大させ、戦国時代における小田原北条氏の基盤を固めています。

この様な情勢の中、出てくるのが越後の上杉謙信です。越後の龍である上杉謙信と、小田原の後北条氏は、関東の覇権を争います。上杉謙信が関東へ出張ると、周辺の諸大名や国衆は上杉謙信に従い、越後に帰ると、後北条氏に従うという事が続きます。これにより、関東における上杉謙信の勢力は、次第に切り崩されていきました。後北条氏が関東に勢力を拡大する中、三田氏もまた、当初は従属していますが、やがて山内上杉氏との旧来の関係を重んじて、独自の立場を取り始めます。この為、三田弾正忠綱秀は後北条氏と対立し、勝沼城を捨てて奥多摩の辛垣城に拠り、抗戦していくという訳であります。

話を桝形山城に戻していきます♪
桝形山城とは、尾根で繋がる辛垣城ですが、後北条氏と戦闘を行う際に築城された、所謂、詰城であります♪辛垣城はやや奥まった場所にある為に、麓の仁保尾の様子がハッキリと分かったのか?と云う事は疑問が残ります。桝形山城は、辛垣城の南東500mの位置に、しかも尾根続きにある事を考えると、やはり築城は三田氏なのでは無いか?と考えるのが自然だと思います♪
桝形山城(標高376m)から北に伸びた峰の1ピークに、物見山(標高418m)と呼ばれる場所があり、そこから西に尾根は展開して、辛垣城(標高451m)があります。更に、辛垣城のある西側で尾根続きの場所には、雷電山(標高493m)があります。
もし自分が後北条氏の立場で、辛垣城を落とす為の付城を造るなら、雷電山かな〜。高い場所から攻めた方が圧倒的有利ではありますから、そちらに陣を張るかな〜♪つまり個人的な見解としては、桝形山城は、三田氏の出城と考えます。また、桝形山城の堀切、土塁、城郭の規模感を見ても、後北条氏が築いた?とは思えない規模と土木領である事も、三田氏の出城と考えてしまう理由の1つであります♪

三田弾正忠綱秀は辛垣城に籠城し、後北条氏に抗戦しますが、結果、後北条軍の大軍に包囲され、辛垣城は落城してしまいます…。。

2025年05月13日 ラッセル上総介【】栗太郎
御嶽城[辛垣城  周辺城郭]

JR青梅線の御嶽駅で下車。ここからケーブルカーの滝本駅まで、バスで移動。車で行く場合は、御嶽山ケーブル滝本駅近くに約130台の駐車場があるが、紅葉などの混雑時期にはすぐに満車になるので注意が必要です。
滝本駅からケーブルカーを利用すると、最急勾配25度・平均勾配22度116人乗りで運行して、御嶽山駅に約6分で運んでくれる。下山もケーブルカーを利用する場合は下りの切符を事前に購入しておいたほうがよい。
右手の展望台からは東京都心が見渡せる。ここにある冨士峰園地行きのリフトに乗っていくと見晴らしの良い展望台がある。
冨士峰園地の斜面では、8月には関東屈指のレンゲショウマが群生するのを見ることができ、早春にはロウバイとカタクリ、秋には紅葉と、季節ごとに花や木々の美しさを楽しめます。
産安社にお参りし、準備を整えたらいよいよ出発❗️
はじめは舗装された平坦な道が続き、やがて右側に御岳ビジターセンターが見えてくる。御岳山は古来から山岳信仰の山だったため、伐採や植林の影響を受けていないため、ムササビなどが生息する自然が残されており、ビジターセンターによる自然観察会などが企画されている。
ここから神社までは参拝者の便宜を図る御師が宿坊と呼ばれる宿を営んでいる。門構えの立派な建物や、昔ながらの茅葺き屋根の建物などが見られる。宿坊に泊まり、自然や文化を堪能することもおすすめです。
案内の看板にしたがって進むと、右側に樹齢1000年といわれる神代ケヤキ(国指定天然記念物)が見えてくる。神代ケヤキを過ぎると神社前の土産物店が両側に軒を連ね、そこを進むと神社の鳥居前に出る。
神社の長い石段を上ると、目に飛び込んでくるのは、朱色の拝殿です。境内にはさまざまな神様を祭る社が立っている。
裏手の山頂に鎮座している「大口真神社」にはオオカミがにらみをきかせている。その昔、この山域で日本武尊が道に迷った際、道案内をして救った白オオカミが神格化して「大口真神」となり、御岳山を守っているのだそうです。さらに、オオカミは農作物に獣害をもたらすイノシンや鹿などを退治してくれるため、農家の人にとっても大助かり。オオカミは農業の神様にもなり、「お犬さま」として信仰されることになった。お犬さま信仰にあやかって、境内には犬を連れた参拝客も多い。手水屋ではペット専用のお清めが用意されている。

武蔵御嶽神社は第10代崇神天皇7年の創建と伝えられ、その後、天平8年に僧行基が東国鎮護のため蔵王権現を勧請したといわれている。その後、山岳信仰の興隆とともに修験道の拠点として、平安時代から江戸時代にかけては、武将たちの信仰が厚く、刀剣や大鎧などが奉納された。畠山重忠が奉納したとされる「赤糸威大鎧」(国宝で日本三大大鎧のひとつ)は、宝物殿に展示されている。

徳川家康が関東に封ぜられると、南向きの社殿を江戸城守護ため東向きに建て替え、三十石が寄進された。また、この頃より庶民の寺社参り御嶽詣が始まり、人々は講を結成し、関東一円より参拝に訪れました。
現在も講を始め多くの人々が参拝に訪れ、その伝統は今も続いている。

参拝後は神社の階段を少し降りたところに分岐があり、右手の細い道に入る。そのまま数分下ると、長尾茶屋のある長尾平分岐に出る。ここで休憩しても良いが、時間があれば、長尾平展望台に行ってみよう。展望台にはあずまやがあり、そこから東京都心の眺望がよい。
景色を堪能したら長尾平分岐まで戻る。右の緩やかに下る道は大岳山や奥之院に行くコースとなるが、左のロックガーデンへ行く。ロックガーデンは「東京の奥入瀬」ともたとえられ、5月の若葉、11月上旬ごろの紅葉など、鮮やかな渓流美を堪能することができる。
分岐から一気に下って七代の滝に到着する。落差50m・大小7段の滝からなる、幽玄な趣のある場所ですが、登山道からはその一部だけが堪能できる。ここから長い鉄の階段を上がると天狗岩が鎮座し、クサリづたいに登っていくと、天狗の像が安置されている。
天狗岩を越えると、いよいよロックガーデンに入っていく。苔むした岩間を流れる緩やかな清流沿いの道を20分ほど登っていくと、トイレと休憩所がある。
そのまま渓流沿いに登っていくと綾広の滝に出る。落差は10mほどの滝であるが、武蔵御嶽神社のみそぎの神事が行われるところである。滝を見下ろしながら急坂を登っていくと、大岳山へ通じる登山道に合流する。ここから稜線を少しいき、鎖場のある巻き道を進むと、大岳山荘と大岳神社が建っている。神社横からクサリのある岩場をひと登りで、大岳山の山頂に到着する。

【拝殿】元禄13年(1700)に江戸幕府によって造営された。江戸時代までは蔵王権現を祀る「御嶽蔵王権現」だったが、明治時代に「御嶽神社」となった。

2025年04月10日 ᴿᴱᴰ副将軍
楯の城[辛垣城  周辺城郭]



クランクする空堀が見事な辛垣城の支城

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。1561年頃に三田綱秀により築かれたと云われます。
当地を支配していた三田綱秀は、1561年に北条氏の侵攻に対して居城であった勝沼城を放棄し山上にある辛垣城に移ります。楯の城は辛垣城の支城として築かれたと考えられています。
しかし1563年には盾の城は北条氏に攻略され、
辛垣城も落城。三田氏は滅亡します。
その後、北条氏家臣の田辺惟良が入城。武田氏の備えとして存続させました。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏滅亡すると楯の城も廃城となりました。

見所
南に多摩川本流、西に西ノ沢、東にタテノ沢に挟まれた要害に築かれています。
青梅線、青梅街道、宅地化により消失している部分もありますが、宮ノ平駅東の踏切から丘陵を登ると土塁と空掘が残ります。
空堀はクランクし櫓台状に張り出し横矢が掛かっています。

2025年03月06日 ᴿᴱᴰ副将軍
日向和田要害山城[辛垣城  周辺城郭]



都内屈指の二重堀切が見事な三田氏の拠点

オススメ度 ★★★★★

築城年代や築城主等の城史は不詳。2023年に発見された新城です。
伝承や記録は残っていませんが、中世は三田氏が支配した地域であり、三田氏が北条氏に備えて辛垣城を守るため築いた拠点と考えられます。
三田氏滅亡後は北条氏が利用した可能性もあります。

見所
都内屈指の大規模な二重堀切が見所です。
丘陵頂部に主郭を配し、東の麓に向けて郭が連なります。東の尾根筋を断ち切る二条の堀切は都内とは思えない深さと鋭さがあります。
石灰岩採掘のため北側は消失しています。

2025年02月26日 ケン遠江守ケン
辛垣城

結構な山道を登らないと辿り着けません。軽登山靴で登ることをお勧めします。

2025年01月27日 mootze
日向和田要害山城[辛垣城  周辺城郭]



JR宮ノ平駅より徒歩で西向かい、福徳神社の入口から登城しました、途中民家なので注意して下さい少しあがると出丸のような所があります、その先2か所の堀切のようなものが、ありますが堀切の大きさからみると、三田氏の掘ったものでなく、北条氏もしくは近代の試掘のように思われます、そのさきには大きな曲輪のような平たんな場所が、ありますが、共同アンテナ跡や、祠をまつる土塁を盛り上げた跡がありました。尚この砦は北側の大部分は、消滅していますが、辛垣城の支城として街道筋の監視や物見櫓と連携して守りの役目を担う砦だったと思われます

2025年01月05日 山本大宰大弐勘助
辛垣城



ハイキングコースから外れて急坂を登るので、しっかりとした登山靴、トレッキングシューズで行くことを勧めます。

2024年12月23日 なぞの旅人フー甲斐守
日向和田要害山城登城口[辛垣城  その他]

階段を上がった神社の裏手が登城口です。駐車場が近くにないのでご留意ください

2024年11月18日 
辛垣城



二俣尾駅北口を出て長泉院の側の林道を通り登城したのですが、藪が多く、段差は滑りやすく危ないです。また、頂上までどの位かかるか、熊🐻や蜂🐝などの危険等を考慮し東側堀切手前で引き返しました。なので、このルートからの登城はオススメしません😓

後で知りましたが、泉蔵院ルートから枡形山城跡を経由して頂上に登ることができるそうです。泉蔵院ルートはある程度整備されており、案内板も設置されていて登山素人者でも分かりやすいです😀

※投稿した写真は長泉院ルートで撮ったものです。

2024年08月02日 ぎっちゃん
辛垣城



8/10から武蔵村山観光案内所にて辛垣城の御城印が員野半四郎武将印とセットで発売されます(来所特別セット価格500円)。半四郎は村山の地頭で辛垣城攻めの時、北条軍の案内役として先鋒をつとめました。案内所は8/11から15まで夏期休暇なので注意してくださいね。

2024年03月02日 ーーーーーーー
日向和田要害山城[辛垣城  周辺城郭]



最近発見された日向和田要害山城。遺構としては、2条の堀切と曲輪と竪堀が見つかっております。城跡の近くにはかつては主要街道が通っていたらしいです。

築城者などは不明ですが、近くには武蔵三田氏ゆかり矢倉台、館の城、辛垣城や後北条氏ゆかりの枡形山城などあります。

北側は石灰採掘で失われていますが、堀切と堀切の双方を技巧的に活かす作りとなっております。

2023年05月26日 徳賀Y絵康勘解由長官
桝形山城[辛垣城  周辺城郭]



二俣尾駅から10分程歩いて登山口に到着。そこからさらに20分山道を歩いて登城しました。山頂は神社のようになっており、鳥居などが見られます。

【遺構】
本丸の南側(駅の方向)には、とても分かりやすい堀切が尾根上に2つあり、堀切と堀切の間をいくつかの小さな曲輪が段々になって並んでいました。
本丸には「桝形山城跡整備竣工記念」と書かれた石碑がありました。平成30年5月と書かれていたので、わりと新しいもののようです。
さらに進むと、半円型の曲輪の先に両側を竪堀に挟まれた土橋があります。この辺りで城域は終わりかと思います。

この道は物見山を経由し辛垣城へ続いているので、そちらも訪れることをおすすめします。

添付写真は、本丸南側の2つの堀切と、山頂にある石碑、本丸北側の両側を竪堀に挟まれた土橋です。

2023年02月14日 気分爽快権大納言
辛垣城



桝形山城を経由し、辛垣城を攻略してきました。さすが山城、辿り着くまでの歩きは久々に疲れてしまい、下山時は足が攣りそうになりました。南側、北側の尾根に堀切があり、主郭入口は切り通しのような虎口となっていますが、どうやらこの入口は、石灰石の採掘によるものらしいです。(でも、すごい)トレランされている方を沢山見かけました。皆さん健脚です。

①腰郭脇の竪堀
②北尾根の堀切先から城址を望む
③北尾根の堀切
④北尾根の堀切と土橋
⑤主郭はかなり削られている様子
⑥掘削されて高土塁のようにも見える主郭
⑦主郭入口
⑧南尾根の堀切

2023年02月05日 南部陸奥守勝牛
辛垣城



まず二俣尾駅から三田氏菩提寺・瑞龍山海禅寺の三田一族宝筺印塔を参詣、御朱印を拝受してから、先達様の口コミの通り、林道から名郷〜城跡に入りました。ハイキングコースは案内が沢山ありトレランしてる方が結構走ってるので、迷う事はなかろうかと思います。途中で辛垣城方面に入りますが、思ったより急登でした。主郭周辺には案内板があり周りは巨岩が露頭しており、採石の痕跡なんだなと感じました。平坦な曲輪と間の堀切は確認する事が出来ました。辛垣城方面に入ってから本道に合流するまで約500m、そのまま進み雷電山山頂〜榎峠へ抜けました。二俣尾駅林道を1335⇒城郭を見ながら辛垣城発1500⇒榎峠で舗装路に出たのが1600になります。そこから最寄り軍畑駅まで約25分歩きました。予想よりはるかに峻険なので、靴や杖、飲み物をしっかり支度した方が良いかとおもいます。

2022年07月11日 たまちゃん
辛垣城

長泉院から名郷峠、ハイキングコースを通って主曲輪に行きました。ハイキングコースに入るとすぐに辛垣城の案内板がありますが、急坂なので、曲輪4方向に進み、西方尾根から主曲輪に行くのがお薦めです。

2022年05月30日 ルカ大納言
辛垣城



矢倉台から雷電山縦走中に寄りました。これまで見た中で最も山深いところにある山城だと思います。こんな城を攻めるのも守るのも嫌だなと言うのが率直な感想です。リア攻めする方は登山靴で来て下さい。

2022年05月15日 後志守あったらもんだ
辛垣城



二俣尾駅から荒れた林道を進み、途中から山道に入って青梅から尾根筋をたどるハイキングコースに合流する。辛垣城跡はハイキングコースからそれた辛垣山頂一帯に広がっており、虎口や切堀のような地形がみられるが、石灰岩採掘跡も混じっているらしい。ハイキングのつもりで軍畑駅へ下れば一段と楽しめる。

2022年05月03日 うっきー
辛垣城



二俣尾駅で降りて、すぐに登城口になります。あとは道なりに進んでいくと名郷峠に出るので、そこを左に折れて少し歩くと到着します。岩盤の堀切が素晴らしかったです。

2022年02月17日 土支田中務大輔
御嶽城[辛垣城  周辺城郭]

室町時代以前に三田氏が築城したと考えられている。室町時代に入ると山内上杉氏の拠点として、安保泰広が入城した。その後、天文21年(1552)には北条氏康に攻められ落城し、平沢政実が入城した。現在、城跡には堀切、土塁などが残る。

2021年08月07日 なぞの旅人フー甲斐守
辛垣城

この近くには日本酒をつくる酒蔵があり、良い水で作った豆腐をあてにきき酒ができます(コロナの今は停止中)。又、紅茶好きなら旧教会を改築したティールームがあり、20種類以上からお茶を選んでアフタヌーンティーができます。あと、歴史小説好きなら吉川英治氏の奥様が開き、今は一族の方が継がれているお店もいいかもしれないですね♪お城周りのグルメ情報ばかりで、お城情報がなくすみませんm(._.)m

2021年02月23日 大宰帥一之介
辛垣城

御城印を2021年3月28日まで、青梅市吉川英治記念館にて来館アンケートの回答者全員に無料で配布しています。月曜日は休館。

2021年01月29日 三輪左近衛少将直虎
リュウガイ城[辛垣城  周辺城郭]



リュウガイ城は飯能市内では屈指の山城だと思います。唐竹橋のバス停から原市場へ抜ける峠道へ登り切通しにある高圧鉄塔の保全道から尾根を歩くのですが、ここからアップダウンがきつい山道を1時間ほど歩かねばなりません。
登っては下りの繰り返しで嫌になりますが急傾斜の山道を登ると唐突に堀切と出会います。そこから腰郭を経て主郭へと着きます。案内板もなくほとんど人が訪れることもない山城ですが道は明確で遺構はよく残っています。主郭と二の郭に残る土塁は立派なもので木々に邪魔されていますが堀切も大きくて迫力がありました。最近は地元の人たちが登山道を整備して道標なども設置してくれたおかげで北側から登れるようになっています。

2020年11月25日 秋山主計允紅守
辛垣城



東京都青梅市の山城で、ハイキングコースとして整備されています。健脚者は青梅駅下車して山上のグラウンドからハイキングコースに入れます。最短コースは二俣尾駅からハイキングコースに入る方法で2時間もあれば駅に戻って来られます。二俣尾から山側を見上げて見える墓地のある所が長泉院で、まずここを目指します。長泉院の門を左手に通り過ぎて直進すると西林道に出ますからここが入り口です。林道を登ってしばらくするとやっと案内板がありほっとします。ここからは迷う事はありません。途中の2又で辛垣山方面とハイキングコース方面に分かれていますが、帰りは左から下りてくる事にして右のハイキングコース方面に登ります。そこそこアップダウンがあって面白いです。東京の山と侮るがなかれ、気を緩めると谷底へという場所が結構あるので滑らない靴で登りましょう。城跡は杉に囲まれていますが昔は遠くまで見渡せたであろうと想像できます。3キロ青梅方面へのハイキングコース上に矢倉台という見晴らし台があります。

2020年09月30日 ️…
楯の城[辛垣城  周辺城郭]

『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図絵』によると、田辺清右衛門やその子孫が住んだ場所と伝えられています。
それぞれの地誌の中で、移住時期や経緯について説明が若干異なっているため、詳細は明らかになっていません。
東方の勝沼城と西北の辛垣城、桝形山城の中間におる楯の城は、番所や狼煙等の合図の中継点になったと考えられています。

企画展 中世青梅の城館跡 ~静かに眠る杣保の城~ パンフレットより

2020年08月25日 ️…
矢倉台[辛垣城  周辺城郭]

解説板より↓
『市指定史跡物見櫓(矢倉台)
青梅地方、かつての杣保(そまほ)に拠点を置いた豪族三田氏は、代々、市内東青梅の勝沼城に居住していたが、北条氏照の八王子滝山入城による多摩地方の情勢の変化をうけ、永禄年間(1558~1569)の初め頃、二俣尾の辛垣山(からかい)に城を築いたといわれる。物見櫓(矢倉台)は、この辛垣城(別名西城)から南東約三キロメートルに位置し戦略上重要な物見の場所であったという。「武蔵名勝図会」には「柵跡、ここには二俣尾の城より峰続き、三田氏居城のころ、この山に砦を構えて遠見の地なりしゆえ、この地をまた櫓台という」と書かれている。
昭和四十六年十一月三日指定 青梅市教育委員会』

2018年04月30日 三ツ鱗▲如意成就
辛垣城

車でリア攻め…と思いきや、近くに有料無料の別無く駐車場はありません。路駐するスペースもありません。青梅線を利用し、二俣尾駅下車での攻城が宜しいかと。

2017年07月10日 カーネル
辛垣城

城へのルートは沢山ありますが、一番近い。と思う青梅線の二俣尾駅から

北にある長泉院から登山道があるのですが、駅の北西の道へ行ってしまい、道がわからずウロウロしてたら地元のおじさんが声を掛けてくださり、それに従ったら伐採の林道の分岐に2回くらい騙されて行ったり来たりをしながら、尾根を直登すると鉄塔作業の整備道に合流し、さらに尾根を登り続けると、雷電山と辛垣城の間の道に出れました

少し進むと、二俣尾駅への看板。おじさんが教えてくれた道はこれか?と思いつつさらに東進

山の斜面を削った高低差のない道を進むと城の案内があるので、それに従い山頂を目指す

頂上はハイキングの人でにぎわってました

帰りは道標に従って尾根を下り長泉院に出ました。こっちから来てれば迷わなかったと思います

荷物が軽かったこともあり、1時間半で駅に帰ってこれました

2013年12月27日 大宰帥一之介
辛垣城

城主にも就任していたので、2度目の登城。
去年倒木で通りにくかったところは、片付けられていました。
縄張図付きの説明板へは、主郭跡に行く登り坂ではなく、そのまままっすぐ進みます。この分岐点から5分ほど、ハイキングコース沿いにあります。この説明板の前には、城のものに見える石垣がありますが、残念ながら江戸期から大正期にかけての採石施設の跡です。ただ、これはこれで貴重な遺構だと思いますが…。

今回、主郭跡に行ってとても不愉快になりました。遺構の説明が書かれている説明板に「何も無い!」との落書きがあり、近くの木にも城主の豪族を罵倒した落書きがありました。両方とも同じ輩の仕業と思われます。
こういうことをする奴には、「お城が好き」とか、「武将は○○が好き」などと言ってほしくないです。

2012年11月10日 大宰帥一之介
辛垣城

青梅線二俣尾駅が最寄り駅です。ところどころに案内板が立っているので、山道ですが、迷うことはありません。
途中にかなり急で足場が悪い坂道があるので、滑らないように気をつけてください。
でも、主郭跡にたどり着くと、疲れも吹き飛びます。解説にあるように、遺構は分かりにくいですが、約450年前の雰囲気が感じ取れます。

2010年09月06日 ️…
辛垣城

杣保(そまのほ)と呼ばれた奥多摩地方の盟主・三田氏と武蔵に進出した新興勢力・後北条氏の最後の戦いの舞台となった城です
後年の採石により、遺構に手が加えられているのが非常に残念ですが、訪れる人も少ない主郭に立ち、土塊だけが知っている東京の片隅で行われた合戦の記憶に触れれば、それなりの充実感を得られるはず
軍畑駅の付近には、討ち死にした両軍の兵を埋葬したと云われる「鎧塚」もありますので、時間があれば立ち寄って手を合わせていってください

辛垣城の周辺スポット情報

 山門(盾の城移築城門)(遺構・復元物)

 堀切・土橋・曲輪(遺構・復元物)

 日向和田要害山城堀切・堅堀(遺構・復元物)

 日向和田要害山城堀切(遺構・復元物)

 軍畑の渡し・碑(碑・説明板)

 矢倉台(周辺城郭)

 桝形山城(周辺城郭)

 楯の城(周辺城郭)

 リュウガイ城(周辺城郭)

 名栗根古屋城(周辺城郭)

 常磐屋敷(周辺城郭)

 御嶽城(周辺城郭)

 日向和田要害山城(周辺城郭)

 尾崎柵(周辺城郭)

 浜竹柵(周辺城郭)

 佐藤塚(寺社・史跡)

 海禅寺(寺社・史跡)

 将門神社(寺社・史跡)

 御岳山頂トイレ(トイレ)

 御岳登山鉄道(関連施設)

 日向和田要害山城登城口(その他)

 将門神社参道口(その他)

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