桝形山城
桝形山城([辛垣城 周辺城郭])
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桝形山城の口コミ情報
2025年05月31日 龍馬備中守【】
東京都青梅市の仁保尾にある【枡形山城と物見山】♪三田弾正忠綱秀が築城した、詰城である辛垣城とは、尾根続きで繋がります♪桝形山城は、辛垣城の500メートル南東にあり、近場に立地しますが、その歴史詳細は不明であります。
『武蔵野歴史地理』によると、『築城者は三田弾正忠綱秀で辛垣城と同時期に辛垣城の支城として築かれた』とあります♪三田氏の前線であり、東側にある勝沼城だけでは、往時の緊迫した軍事情勢から(対、後北条氏)心許ない為に、詰城として、三田氏の領地である武蔵国・杣保(青梅)の奥まった場所に、辛垣城と桝形山城を築いたという事なのでしょう。
その他には、桝形山城の築城形態は辛垣城と全く異なり、1562年~1569年に滝山城主・北条氏照が武田軍の来襲に備え、桝形山城を築城したという考察や、北条氏照が三田氏の辛垣城を攻める為の付城としたとする考察など、様々な憶測があります。
この時期の三田氏にクローズアップしてみます♪辛垣城の戦いに至るまでの三田氏の動向ですが、山内上杉氏とは主従関係にあり、三田弾正忠は顕定に従って、各地を転戦しています♪
当時の山内上杉氏は、扇谷上杉氏と並ぶ関東管領家の一角であり、武蔵や相模を中心に勢力を持っていました。文明10年(1478年)上杉顕定から出された書状は、宛名の三田弾正忠氏宗への敬意が強く、三田氏は上杉氏から重んじられ、高い地位にあった事が伺われます。三田氏は代々、杣保を根拠地として、やがて山内上杉氏の一武将として台頭し、やがては高麗郡・入間郡方面までを領有して、勢力を伸ばす様になっていきました♪
関東ではこの頃、両上杉氏(山内上杉家VS扇谷上杉家)が抗争を続ける中で、次第に頭角を表して行くのが伊勢宗瑞(北条早雲)でありました。北条早雲は駿河今川氏の客将から身を起し、掘越公方を討って伊豆を支配下に置くと、相模に進出。扇谷上杉氏を支援して、着々と地盤を固めていきます。16世紀にもなると、武蔵にまで勢力を拡大させ、戦国時代における小田原北条氏の基盤を固めています。
この様な情勢の中、出てくるのが越後の上杉謙信です。越後の龍である上杉謙信と、小田原の後北条氏は、関東の覇権を争います。上杉謙信が関東へ出張ると、周辺の諸大名や国衆は上杉謙信に従い、越後に帰ると、後北条氏に従うという事が続きます。これにより、関東における上杉謙信の勢力は、次第に切り崩されていきました。後北条氏が関東に勢力を拡大する中、三田氏もまた、当初は従属していますが、やがて山内上杉氏との旧来の関係を重んじて、独自の立場を取り始めます。この為、三田弾正忠綱秀は後北条氏と対立し、勝沼城を捨てて奥多摩の辛垣城に拠り、抗戦していくという訳であります。
話を桝形山城に戻していきます♪
桝形山城とは、尾根で繋がる辛垣城ですが、後北条氏と戦闘を行う際に築城された、所謂、詰城であります♪辛垣城はやや奥まった場所にある為に、麓の仁保尾の様子がハッキリと分かったのか?と云う事は疑問が残ります。桝形山城は、辛垣城の南東500mの位置に、しかも尾根続きにある事を考えると、やはり築城は三田氏なのでは無いか?と考えるのが自然だと思います♪
桝形山城(標高376m)から北に伸びた峰の1ピークに、物見山(標高418m)と呼ばれる場所があり、そこから西に尾根は展開して、辛垣城(標高451m)があります。更に、辛垣城のある西側で尾根続きの場所には、雷電山(標高493m)があります。
もし自分が後北条氏の立場で、辛垣城を落とす為の付城を造るなら、雷電山かな〜。高い場所から攻めた方が圧倒的有利ではありますから、そちらに陣を張るかな〜♪つまり個人的な見解としては、桝形山城は、三田氏の出城と考えます。また、桝形山城の堀切、土塁、城郭の規模感を見ても、後北条氏が築いた?とは思えない規模と土木領である事も、三田氏の出城と考えてしまう理由の1つであります♪
三田弾正忠綱秀は辛垣城に籠城し、後北条氏に抗戦しますが、結果、後北条軍の大軍に包囲され、辛垣城は落城してしまいます…。。
2023年05月26日 徳賀Y絵康淡路守
二俣尾駅から10分程歩いて登山口に到着。そこからさらに20分山道を歩いて登城しました。山頂は神社のようになっており、鳥居などが見られます。
【遺構】
本丸の南側(駅の方向)には、とても分かりやすい堀切が尾根上に2つあり、堀切と堀切の間をいくつかの小さな曲輪が段々になって並んでいました。
本丸には「桝形山城跡整備竣工記念」と書かれた石碑がありました。平成30年5月と書かれていたので、わりと新しいもののようです。
さらに進むと、半円型の曲輪の先に両側を竪堀に挟まれた土橋があります。この辺りで城域は終わりかと思います。
この道は物見山を経由し辛垣城へ続いているので、そちらも訪れることをおすすめします。
添付写真は、本丸南側の2つの堀切と、山頂にある石碑、本丸北側の両側を竪堀に挟まれた土橋です。