藤橋城(ふじはしじょう)
藤橋城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 東京都青梅市藤橋2
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 平山氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(藤橋城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
今井城(東京都青梅市)[1.5km]
勝沼城(東京都青梅市)[2.5km]
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藤橋城の解説文
藤橋城の口コミ情報
2025年06月08日 龍馬備中守【】
藤橋城
東京都青梅市の藤橋にある【藤橋城】♪
歴史詳細が余りない為、記載しておきます♪
城郭は現在公園となっていて、やや微高地、台地の先端部に築かれた事が分かります♪直下には、長閑な田園風景が広がり、城郭の北側には霞川が流れ、笹仁田峠がバッチリ見え、七国峠方面もシッカリ監視出来る場所に、城郭は立地しています♪
築城年や築城主は不明ではありますが、戦国時代には、北条氏に属した平山越前守虎吉、もしくは藤橋小三郎の居城だったとされます♪北条氏に属した平山氏に関しては、武蔵七党の1つである西党の出身で、源平合戦で活躍した平山季重の後裔と云われています♪
武蔵七党ですが、平安時代後期頃から鎌倉時代・室町時代にかけ、武蔵国を中心に下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた、同族的武士団の総称であります♪
実際は九党あったのですが、鎌倉時代は七党だったとされ、武蔵七党と云われています♪
平山氏の西党や横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党、綴党、私市党の九党が存在していました♪
因みに平山一族は、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをした事で知られていて、西党きっての有名人、平山季重を輩出した一族なのであります♪余談ではありますが、平山氏は筑前国原田荘の地頭となり、季重の孫である重実が筑前平山氏の祖ともなっていて、九州にも縁がありました♪
戦国時代には平山氏の宗家は檜原城を居城としていて、その分流が藤橋城を居城としていました。平山越前守虎吉は滝山、八王子城主の北条氏照に仕えたとされますが、永禄3年(1560年)関東へ出馬した上杉謙信の幕下に、藤橋城主・平山光義の名があります。永禄6年(1563年)平山光義は北条氏に藤橋城を攻め落とされ、小田原城で拘留された後に許され、下総多古へ落ち延び帰農したとされます。平山氏もまた、北条氏VS上杉氏の間に揺さぶられ、生きていったのでしょうね。三田氏と同じですね。
この平山氏が藤橋城を去ると、藤橋小三郎が城主となります。杣保(青梅エリア)の領主であった三田弾正忠綱秀は、永禄6年(1563年)辛垣城の攻防戦に敗れ滅びていますが、一族の三田治部少輔は後北条氏に仕え、清戸三番衆に名を連ねていて、その配下の中に藤橋小三郎の名があります。藤橋小三郎もまた、平山氏の一族であります。
清戸三番衆に向けた、清戸三番衆状があり、コレは、永禄7年(1564年)青梅近辺に在住する41人の旧三田家臣団に発せられた命令書で、当時反北条氏勢力との最前線に近かった、清戸(清瀬市)警備を命じています。
そこには『清戸三番衆/三田治部少輔/五騎 師岡采女佑/三騎 藤橋小三郎』と始まり、後半は『右、清戸二番衆、当月十九日二在所を立て、先番二替候、…三田谷各在々所々を打立、五以前箱根賀崎にて相集、此御書立二引合、一騎茂無不足、又無遅参様、引そろへ召列…(以下略)』と記されています。
これは『三田治部少輔・師岡采女佑・藤橋小三郎は部下を引き連れ…三田谷の各所を出発し、午前8時以前に箱根ヶ崎に遅れないよう集合し、また、一人でも不参加の者が無いようにせよ…』という事が書かれていて、これ以降の部分には、『遅れた場合には切腹を命じる』という、なかなか厳しい内容も含まれています。
2025年05月29日 左兵衛佐ともとも
藤橋城
公園となっていますので、ナビ通りで問題なく着けました。駐車場は有りません。単郭城のようで本郭内に遺構はありませんが、外から見ると土塁が確認できます。
2025年03月16日 MAHARAJA志摩守77
藤橋城
とても静かなところでよかったです。ただし幹線道路から少し入ったところなので少しわかりづらいところもありました。
2025年01月29日 ᴿᴱᴰ 副将軍
藤橋城
檜原城主の平山氏一族の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。平山重吉の居城であると伝わります。
平山氏は武蔵七党のひとつである西党に属する平山季重の一族とされ、藤橋城の平山氏は、檜原城の平山氏の庶流とも云われます。
1560年に長尾景虎が関東管領上杉憲政を擁して関東の北条氏領に侵攻すると、北条氏に従っていた藤橋城の平山光義は長尾陣営に参陣したと云われます。
しかし1561年に長尾景虎が北条氏攻略に失敗し越後へ戻ると、藤橋城には北条氏が攻め寄せて1563年に落城。平山光義は捕えられるも後に解放されて下総国多古へ落ち延びたと云われます。
その後の藤橋城については不明で、廃城となったとも平山氏一族が承継したとも云われます。
見所
霞川南岸の河岸段丘に築かれています。南側に豊岡街道、東側に岩蔵街道を抑える交通の要衝。
主郭は公園化により整備され、周囲は住宅地となっており、主郭のみの単郭を基調とした小規模城であったと考えられています。
公園となりましたが、主郭の周囲を巡る土塁と北東部の空堀、主郭一段下の空堀と帯郭が残っています。
2024年09月27日 マグロ常陸介祐平
藤橋城
城址の説明板によると、江戸時代の書物「武蔵名勝図会」の引用として、「北条氏照につかえる平山越前守虎吉の居住の地で、檜原村の城跡の平山氏の一族」としています。藤橋城の平山氏は、実際には三田氏の配下だったようで、関東幕注文に載る勝沼衆の平山氏は、檜原ではなく藤橋の平山氏のことのようです。
伝承では、三田氏と共に上杉方についた藤橋光義は、永禄6年に北条氏に攻められ藤橋城は落城、光義は捕虜となるも許されて平山一族(壺岡城主)の住む下総国多古に移り帰農し、妻で檜原城主平山氏重の妹の鶴壽姫もあとをおって多古に行き光高を産んだとされています。多古の鏑木平山氏の初代は光高とされ、先祖の藤右衛門は小田原の役後に多摩郡平山から香取郡中村に来住したと伝わることから、若干の違いがあるものの関連性を感じます。気になる点は、壺岡城主季助の長男の諱が光義(妻無く弟の季邦が壺岡城を継ぐ、世代的には藤橋城主で多古に移った光義と同じ)となっている事です。猶子ということでしょうか。(多古町デジタルアーカイブ参照、別に光義を山中城で討死し光高(光政)は光義の弟とする系図も紹介、鏑木平山氏に伝わる系図には光義と光高は親子関係)
藤橋城主としては、清戸三番衆の三番目に名がある藤橋小三郎との説もあるようですが、近くの報恩寺は、北条氏により藤橋城が落城した永禄6年より後の天正年間に、藤橋城主平山越前守重吉(藤橋小三郎の別名?天正20年卒、何故か日奉姓では無く平姓を名乗る)が再建し報恩寺の山号を東暁山から藤橋山に改めたとされており、かなり混乱しています。
余談ですが、陸奥相馬氏の家臣藤橋胤泰の三男も小三郎(家胤)で、上杉氏の家臣柿崎景家に仕えています。ほぼ同世代で同姓同名、三田氏と同様に相馬氏(平姓)の系統と思われることから同一人物を一瞬疑いましたが、ありえませんね。
お城は単郭で、南側の一部を除き土塁と空堀がよく残っています。道路を挟んだ北東側の緑地には櫓台があったようです(写真4枚目は手前櫓台から本郭方向)。
藤橋城は心霊スポットとしても知られているようですので、夜間の探索は控えましょう?
2024年09月25日 マグロ常陸介祐平
報恩寺[藤橋城 寺社・史跡]
青梅市の中世城館跡に記載される天台宗の古刹です。弘仁13年(822年)に延暦寺の僧亮海により開創と伝わり、元亨2年(1322年)に平清綱(三田氏の先祖?)により再建、天正年間(1573~91年)に藤橋城主平山越前守重吉により再々建、文禄5年に上成木の土豪の木崎縫之助、塩野出雲守らにより諸堂の整備・修造が行われています。
お寺は台地の先端に位置し、西側には霞川が流れており、城郭に適した場所となっています。三田氏または藤橋氏の支城的な役割の寺院だったのでしょうか。堀があるとのことですが、見つかりませんでした。
境内には、勝沼城主三田政定の和歌の短冊の収められた延命地蔵が安置される地蔵堂や室町時代初期の板碑などの文化財を見ることが出来ます。
2024年09月09日 みよ釆女正
藤橋城
車で城のすぐそばまでいけました。地域の方々により、保存活動が見受けられて、感謝です。夏でしたから、草が生い茂っています。春にまた行ってみます。ベンチがありお弁当持って行きたいです。
2022年06月10日 尾張守マクシミリアン
藤橋城
城址(曲輪が一つと付属の曲輪があるようだ)は公園に整備されているが、駐車場はない(と思う)。看板がある南側の道路が広めになっているので、道の端に停めて短時間なら停車可。ざっとならそれで十分。曲輪をぐるりと取り巻く土塁はよく残っている。
2022年02月17日 四間飛車左衛門佐とみー
藤橋城
2022年1月31日 本来なら愛媛マラソンの後、 道後温泉でビタビタに浸っている時、 東青梅の攻略に行ってきました。
勝沼城の後は藤橋城へ!だいたい徒歩30分、こちらのリア攻めマップを使えばそれほど迷う事はないと思います。この間、経験を積んできたからか?
少しずつではありますが地勢から城の匂いを感じ取れるようになってきました。 藤橋城ですが、公園として整備されており、土塁が少し残っています。あまり大きくありませんが周辺と比して高くなっており、つなぎの防衛施設としての用は満たすものと思いました。
2022年02月16日 くるみ丸
藤橋城
それらしい公園が整備されてます 見晴らし良く 往年の城趾を思わせます されど、車を停める場所無く、アクセス不便
2019年06月02日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
藤橋城
一見、住宅地に作られたふつうの公園。だがよく見ると土塁が郭を取り巻く立派な城郭の一部であることが見えてくる。★整備は城郭の無骨さより植栽の美しさ重視のようで、よく見なければ城郭遺構とは気づかないかも…
2015年10月19日 まー刑部卿
藤橋城
空堀がよく残っていますが駐車場ないので裏の畑沿いに路駐。曲輪跡はただの公園だけど少し斜面を降りると土塁や空堀あります。
2013年10月19日 中務卿一之介
藤橋城
公共交通機関を利用する場合、JR青梅線河辺駅北口からバスで、「市営住宅」バス停で下車します。バスは10分ほど、バス停からは徒歩5分ほどです。
土塁がいい状態で残りますが、こじんまりとしているためか、城跡という雰囲気はあまり感じません。
今井城へは徒歩17~18分ほどで着くので、一緒にまわることをお勧めします。なお、沿道に案内標識は見当たりませんでした。
藤橋城の周辺スポット情報
一里塚榎(川越街道)(碑・説明板)
報恩寺(寺社・史跡)
宝泉寺(寺社・史跡)
杣保葛神社(寺社・史跡)
大井戸(まいまいず井戸)(寺社・史跡)
笹仁田峠(その他)
現在、城址は公園となっており、土塁などが残っている。