勝沼城(かつぬまじょう)
勝沼城の基本情報
通称・別名
- 師岡城
所在地
- 東京都青梅市東青梅6-92、93他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 三田氏
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 三田氏
廃城年
- 永禄6年(1563)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 都史跡(勝沼城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
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勝沼城の解説文
[引用元:Wikipedia「勝沼城」の項目]勝沼城(かつぬまじょう)は、東京都青梅市にあった日本の城。
【概要】
勝沼城は三田氏により築かれた平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城になったと考えられている。
【歴史・沿革】
・築城年代は詳らかでないが、三田氏により築かれたとされる。
・永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の三田綱秀は後北条氏を離れ上杉方についた。
・永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した綱秀が辛垣城を築き居を移した。
・永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照により三田氏が滅ぼされ、勝沼城も落城した。
【構造】
加治丘陵端の尾根上に占地し、本丸を中心に、尾根方面に三の丸、丘陵端方面に二の丸を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の丸には東面及び南面に馬出しが設けられている。また、二の丸及び三の丸には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る構造となっている。
【考古資料】
~遺構~
1925年(大正14年)に旧跡に、1976年(昭和51年)に歴史環境保全地域に指定されたため、一部が墓地として開かれているものの遺構は比較的よく残り、郭、空堀及び土塁が現存する。
【観光】
~アクセス~
・JR東青梅駅下車。...[続きを見る]
勝沼城の口コミ情報
2020年10月12日 秋山主殿允紅守
勝沼城
11月29日まで、青梅市郷土博物館にて中世青梅の城館跡〜静かに眠る杣保の城〜展が開催されています。来館記念に勝沼城の御城印がもらえるそうです。
2020年06月27日 フー甲斐守
勝沼城
先人の方に加えて。
妙光院側は今でも立ち入り禁止でした。私も光明寺側からですが、先人の方の言われる城山配水場の手前、光明寺の墓地が途切れた所を右に入る山道があり、私はそこから登城しました。
この道だと鉄塔の真下(見晴台)に通じており、先人の方の仰る三ノ丸の空堀を見た後戻って本丸を抜け、二の丸側から城山配水場に抜ける事が出来ました。地図部分のせておきます。
2013年09月21日 中務卿一之介
勝沼城
青梅線東青梅駅から徒歩12,3分ほどです。光明寺と、妙光院というお寺の裏山が城跡になります。
光明寺側と妙光院側の二ヵ所から入れますが、妙光院側には「関係者以外立ち入り禁止」の立て札が…。一説では、墓地造成の際に何かトラブルがあった可能性がある、とのこと。
私は光明寺の左手の直進する道から行きました。200メートルほど行くと、道の左に水道施設があります。このちょうど向かい側から入山します。
山道を進むと、開けた場所に出ますが、ここが主郭跡なのでしょう。
側に立つ鉄塔の左の山道を抜けると、空堀、土塁が確認できます。
説明板は主郭跡と空堀前に同じものが立っています。
空堀をそのまま進むと、「立ち入り禁止」の立て札のところに出ました(汗)。
「勝沼城」の案内表示はまったくないので、光明寺を目指した方が確実です。
城主が同じの辛垣城同様、約450年前の雰囲気が感じ取れました。
すぐ近くに「吹上しょうぶ園」があります。菖蒲が咲く時期に、合わせて訪れるのもよいと思います。