勝沼城(かつぬまじょう)
勝沼城の基本情報
通称・別名
- 師岡城
所在地
- 東京都青梅市東青梅6
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 三田氏
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 三田氏
廃城年
- 永禄6年(1563)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 都史跡(勝沼城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
藤橋城(東京都青梅市)[2.5km]
今井城(東京都青梅市)[4.0km]
辛垣城(東京都青梅市)[5.2km]
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戸吹城(東京都あきる野市)[9.0km]
高月城(東京都八王子市)[10.0km]
戸倉城(東京都あきる野市)[10.4km]
滝山城(東京都八王子市)[11.5km]
勝沼城の解説文
[引用元:Wikipedia「勝沼城」の項目]
勝沼城(かつぬまじょう)は、東京都青梅市にあった日本の城。別名は師岡城(もろおかじょう)。東京都指定史跡。
概要
勝沼城は、三田氏により築かれた平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城になったと考えられている。
歴史・沿革
- 築城年代は詳らかでないが、三田氏により築かれたとされる。
- 永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の三田綱秀は後北条氏を離れ上杉方についた。
- 永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した三田綱秀が勝沼城より辛垣城を築き居を移した。
- 永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照により三田氏が滅ぼされ、勝沼城も落城した。
構造
加治丘陵端の尾根上に占地し、本丸を中心に、尾根方面に三の丸、丘陵端方面に二の丸を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の丸には東面及び南面に馬出しが設けられている。また、二の丸及び三の丸には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る構造となっている。
考古資料
遺構
1925年(大正14年)に旧跡に、1976年(昭和51年)に歴史環境保全地域に指定されたため、一部が墓地として開かれているものの遺構は比較的よく残り、郭、空堀及び土塁が現存する。1993年(平成5年)には東京都指定史跡に指定された。
観光
アクセス
- JR東青梅駅下車。
参考文献
- 『資料青梅市の中世城館跡』 青梅市教育委員会 1990年
- 「青梅市史 上巻」、青梅市市史編さん委員会、1995年
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勝沼城の口コミ情報
2024年09月24日 マグロ常陸介祐平
勝沼城
築城時期は分かっていないようですが、三田氏によって築かれたとされています。三田氏としての最後の城主は三田綱秀で、北条氏の他国衆として507貫900文(内300貫900文は相模国酒匂郷)を知行していましたが、上杉氏が関東に進出すると上杉方につき、謙信が越後に帰国すると北条氏に攻撃され、勝沼城から防衛に適した辛垣城に移り抵抗しますが永禄6年に落城し、岩槻城に落ち延びるも最後は自刃しています。(尚、弟の綱勝は北条方に残り、御館の乱で景虎方として戦い、討死しています。子孫は北条氏滅亡後、旗本となっています。)
三田氏が滅亡すると三田氏の一族とされる師岡将景が北条氏の元で城主(城代?)となります。師岡氏は小田原衆所領役帳で45貫の知行と記載され、上杉氏の関東幕注文には勝沼衆として名前が載ることから、最終的に三田氏から離れ北条氏に従ったものと思われます。将景の子の采女佑は、清戸三番衆として滝ノ城(清瀬市)に在番しています。
将景は猛将だったようで、甲陽軍鑑には、北条氏照の守る滝山城と多摩川をはさんだ拝島に陣を敷く武田氏との戦いで十文字槍を振り回し、勝頼と三度槍を合わせ双方一歩も譲らずと記述されています。伝承では、北条氏滅亡後は中山氏に従い大坂夏の陣で討死し、子の采女佑は仕官せず帰農しています。中山信吉との関係か、師岡氏の一族には水戸藩や高松藩に仕えた者もいるようです。
お城は、3つの郭で構成され、郭を囲む空堀や土塁の一部、土橋など、遺構の保存状態は良好でした。東京都の史跡に指定されており、3郭の妙光院墓地は立ち入り禁止ですが、整備されており見やすいお城です。
2024年09月09日 みよ釆女正
勝沼城
勝沼城みどりの会があり、保存活動がされている様で、うれしいです。墓地の上が城内かと、思いましたが、上がる道が見つからなかったので、泣く泣く帰りました。
2024年03月10日 あやさと治部少輔
勝沼城
墓地の横から上がっていく少しわかりづらいところにあります。勝沼城と書いてあったり師岡城と書いてあったり、下の説明には別名であると書いて欲しかった。
2024年03月07日 いれぶん武蔵守
下長淵三田氏館[勝沼城 周辺城郭]
下長淵館とも称されている。城域もはっきりとはしていないが、現在の長淵1丁目の内、吉野街道北側部分に遺構が残っている。大きくは2本の川による深い谷に挟まれた範囲らしいのは、山側に「万場坂通り」と名前を残す坂道が馬場をあらわす事でわかる。西側に谷として接する鳶巣川が多摩川と合流する付近に、河辺の渡しがある事が、この地の戦略的重要性を明らかにしていると思う。範囲内には今も「三田」を称する方々が居住されているのは、店舗名等を表す看板でよくわかる。
現在はっきりと残っている遺構は土塁くらいだが、1990年頃までは吉野街道沿いに堀跡の可能性が感じられる凹みがあったと「資料青梅市の中世城館跡」(青梅市教育委員会)に記載されている。また私有地内の為、入って行けない崖端部に堀跡と思われる遺構もあったようだが、確認出来ない。川沿いに下っていく道路から見れる切岸と、下長淵公園から見れる崖状況、対岸から望める高低差15mほどある河岸段丘に往時の防備力が感じられる。
2023年10月22日 気分爽快陸奥守
勝沼城
光明寺背後の墓地から、または光明寺の西横の道から先にある墓地横の道(竪堀)から登城できます。郭の周囲は堀と土塁で囲まれています。車は止めるところがなかったので、駅前の時間貸しを利用しました。
①光明寺墓地に面した郭の切岸
②①の郭からの眺め
③主郭東の土塁
④3郭南の土橋と堀
⑤3郭南の堀
⑥2郭北の土橋
⑦主郭を北西から
⑧主郭北の土橋
2022年02月16日 四間飛車左衛門佐とみー
勝沼城
2022年1月31日
本来なら愛媛マラソンの後、道後温泉でビタビタに浸っている時、東青梅の攻略に行ってきました。手始めに勝沼城から攻略開始です。
東青梅駅から徒歩5分、光明寺の墓地を駆け登っての攻略になります。案内板などないので少し不安になりますが、まずまず整備された道を進むと高台に城の碑があります。当日は好天、気温もあったかかったのでスニーカーで行軍できました。霜が降りた後、雨、雨上がりは軽登山靴はあったほうがよいと思われます。見晴らしもよくなかなかの城です。
周辺への道も整備されていて、吹上しょうぶ公園に抜けて、次の攻略目標へ向かう事としました。
2021年06月09日 くるみ丸
勝沼城
光明寺の墓地を通り抜け 頂上まで上がると、城址に到着しました。一帯は自然保護区となり、隣接したしょうぶ苑が花盛りですね。この季節、立ち寄ってください
2020年10月12日 秋山主計允紅守
勝沼城
11月29日まで、青梅市郷土博物館にて中世青梅の城館跡〜静かに眠る杣保の城〜展が開催されています。来館記念に勝沼城の御城印がもらえるそうです。
2020年06月27日 フー甲斐守
勝沼城
先人の方に加えて。
妙光院側は今でも立ち入り禁止でした。私も光明寺側からですが、先人の方の言われる城山配水場の手前、光明寺の墓地が途切れた所を右に入る山道があり、私はそこから登城しました。
この道だと鉄塔の真下(見晴台)に通じており、先人の方の仰る三ノ丸の空堀を見た後戻って本丸を抜け、二の丸側から城山配水場に抜ける事が出来ました。地図部分のせておきます。
2013年09月21日 中務卿一之介
勝沼城
青梅線東青梅駅から徒歩12,3分ほどです。光明寺と、妙光院というお寺の裏山が城跡になります。
光明寺側と妙光院側の二ヵ所から入れますが、妙光院側には「関係者以外立ち入り禁止」の立て札が…。一説では、墓地造成の際に何かトラブルがあった可能性がある、とのこと。
私は光明寺の左手の直進する道から行きました。200メートルほど行くと、道の左に水道施設があります。このちょうど向かい側から入山します。
山道を進むと、開けた場所に出ますが、ここが主郭跡なのでしょう。
側に立つ鉄塔の左の山道を抜けると、空堀、土塁が確認できます。
説明板は主郭跡と空堀前に同じものが立っています。
空堀をそのまま進むと、「立ち入り禁止」の立て札のところに出ました(汗)。
「勝沼城」の案内表示はまったくないので、光明寺を目指した方が確実です。
城主が同じの辛垣城同様、約450年前の雰囲気が感じ取れました。
すぐ近くに「吹上しょうぶ園」があります。菖蒲が咲く時期に、合わせて訪れるのもよいと思います。