網代城(あじろじょう)

網代城の基本情報

通称・別名

所在地

東京都あきる野市網代

旧国名

武蔵国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

青木氏、貴志氏

廃城年

遺構

曲輪、堀切、竪堀

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

戸吹城(東京都あきる野市)[3.3km]
戸倉城(東京都あきる野市)[4.1km]
浄福寺城(東京都八王子市)[5.5km]
小田野城(東京都八王子市)[6.0km]
二宮城(東京都あきる野市)[6.4km]
高月城(東京都八王子市)[7.0km]
八王子城(東京都八王子市)[7.6km]
滝山城(東京都八王子市)[8.0km]
勝沼城(東京都青梅市)[8.8km]
檜原城(東京都西多摩郡)[9.0km]

網代城の口コミ情報

2025年12月11日 マグロ常陸介祐平
阿伎留城[網代城  周辺城郭]



三内氏のお城と伝わります。風土記稿によると、阿伎留城のある三内村は、三宮四郎綱遠が開墾し、孫の中務太輔國政の時に名字をもって三宮村となり、4代孫の現左衛門昌國が名字を三内と改めたことにより疑わしき説ではあるが、三内村に改名されたとしています。また、旧家として三内氏を次のように解説しています(懐疑的なことも含め、お城のことを要約した内容の為、全文載せます)。「百姓隼人 隼人此村草創の百姓にして、世々名主役を努め、三内を氏とせり。家譜を閲するに、先祖は伊予守頼信(※源頼信)より出て、其後五代の孫四郎綱遠に至り、始て三宮を氏とす、萬里小路大納言某卿に仕え、鎌倉の北条泰時と数度合戦のことありて、武蔵国阿伎留山居城すといへり、その子四郎政行父に継て阿伎留城に住して、孫中務大輔國政の時、正五位上に任じ阿伎留宮の社務職を勅許ありしと。阿伎留宮と云は三内明神のことなるべし。夫より四代の孫源左衛門昌國に至り、故ありて氏を三内と改めしとなり。此家譜に云所は他の書にいまだ見ざることにて、いと疑はしきものなれど、今も三内明神現存して、かの神主三内対馬もこの末流なるよしをいへば、旧家なることはしらる。恐らくは家譜は後人の手に成しものなるべし。家に元亀三年房兼と云人より西又十郎に与えし感状を持伝えり、この又十郎は中務大輔國政が二男なる由、家譜には載たれどこれも全く後に書加へしものと見ゆ、感状の文左の如し。」感状は、蘇原表?の働き(頸1つ他)を賞したものです。内容を疑う言葉が何度も出ますが、戦国期には北条氏に属す武士として戦に出ていたようで、近くにある大悲願寺の過去帳に「天正十八年六月二十五日於八王子城討死・浄心禅定門俗名三内中務」「天正十八年七月十一日於小田原城討死・道雄居士俗名三内蔵人」とあるようです。

お城は天竺山(古くは秋留山)の山頂に位置しています。山はほぼ独立したもので、山頂には三内神社の奥宮が鎮座しています。山麓の自治会館から山頂のお城まで、明らかな城郭的構造は見られませんが、山頂からの展望はよく、東京サマーランドが良く見えました。三内神社の神職は前記の三内氏で、江戸時代吉田家の門流で有竹長門の配下で山麓に住んでいたと記述されることから、戦国期も山麓に居住し、有事の際に詰める城として存在する簡易的なものだったと思われます。

近くにある大悲願寺は、文化財が豊富な見応えのあるお寺ですので、攻城の際はこちらもオススメです(写真8枚目)。

2025年12月10日 マグロ常陸介祐平
伊奈城[網代城  周辺城郭]



上平井館の背後の山上にあるお城で、来歴や城主などは伝わらないようです(昭和53年にお城として確認)。上平井館が居館とすると詰めの城ということになるように思われます。また、北側の日の出団地付近には平井氏の居館があったとされることから、そちらの詰城の可能性もあります(日の出団地の西側山上には唐松山城も存在する)。

お城は、北郷神社の鎮座する本丸と、一段下の二の丸で構成されています。神社の北側には尾根道が続きますが、堀切は見られないのが気になります。北郷神社は、昭和43年に松岩寺内や別の場所にあった小祠を合祀して創建された比較的新たしい神社で、山上部二段の郭と建物はサイズがマッチしていないことから、城郭的なものということに違いないと思われます。伊奈城の北東の麓の低地は三方を山に囲まれた削平された谷戸地となっており、気になります。

2025年12月09日 マグロ常陸介祐平
上平井館[網代城  周辺城郭]



松岩寺が館跡となります。平井氏の居館と考えられているようですが、確証はないようです。日本城郭大系の解説では、松岩寺を宗剱寺跡のように記述されていますが、松岩寺は伊奈村、宗剱寺は平井村にあり違和感を感じます。また、松岩寺は延文2年(1357年)の創建とされており、元来お寺だった可能性もあるように思えてしまいます。上平井館が居館とすると、背後の山上の伊奈城は詰城ということでしょうか。

館は、背後を山にした、階段15段程度のやや高い場所に位置しており、周辺には明確な城郭的な構造は見られません。本堂の左後ろの山腹に明治27年に建てられた半僧坊のある場所も明治期に削平された可能性があるように思われます。

本堂前の石垣は立派なもので、地元の伊奈石が使用されたものです。伊奈村の地名の由来は、往古信濃国伊奈郡より移り住んだことによるものとされ、家康の関東入国時は、江戸城の石垣等の御用を務めたと伝わるようです。村内には「鍛冶屋平」という江戸城天守閣造営の銅瓦を作成したとされる場所があるようです(何故か石垣ではない)。

2025年12月08日 マグロ常陸介祐平
平井館[網代城  周辺城郭]



来歴や城主など不明なお城です。Googleマップには、「平井館堀切跡」と位置登録されています。平井村は、中世の武士が多く居住しており日奉を本姓とする平井氏・大向氏・野口氏・土澤氏や森田氏・田中氏など、村内には多くの中世居館があったものと思われます。平井氏の館と推定されるようですが、風土記稿に舘跡として記載される宗剱寺(廃寺、伊奈城の北側の日の出団地付近)が平井氏の館とされていることから微妙な感じです。

お城は住宅地となり、遺構らしきは見当たりません。Googleマップの堀切跡も堀切というよりは、竪堀跡のような感じです(写真1,2枚目)。台地上に築かれており(写真3,5枚目)、立地的にはお城に適した土地に思えます。北側の台地下(写真4枚目)には水堀があったとされるようです。

2023年10月26日 いれぶん武蔵守
広德寺うら山城[網代城  周辺城郭]



南一揆関連拠点の一つとして挙げられている。中田正光氏が五日市町郷土館発行の郷土館だより第9号で言及している。

2023年10月23日 いれぶん武蔵守
八幡神社[網代城  寺社・史跡]



南一揆の城館趾と言われている場所の一つであり「舘谷」とされている。中田正光氏が五日市町郷土館発行の郷土館だより第9号で言及している。

2023年10月22日 いれぶん武蔵守
禅昌寺[網代城  寺社・史跡]



棟瓦に三つ鱗が使われていて北条氏の影響を認める事が出来るが、寺の創立は1527年であり、南一揆が上杉氏から後北条氏に転じたと言われる川越夜戦(1545)よりだいぶ早く、江戸城を奪った1524年に近い時期だった事がわかる。

以下はあきる野市HPからの情報
禅昌寺(ぜんしょうじ) 
網代241 
臨済宗建長寺派 
創立は大永7(1527)年、開山は天甫鏡岩禅師、開基は不詳である。網代には妙台寺という寺があり、貴志嶋神社の別当寺として同社の祭祀を行なっていたが明治初年に禅昌寺へ合寺されている。本尊の聖観音菩薩は俗に「枕返し観音」といわれている。
(あきる野市寺院一覧[2021年3月16日]より)

2023年04月10日 いれぶん武蔵守
上平井館[網代城  周辺城郭]



現在は松厳寺となっています。
中世に平井宿を管理していた平井氏の居館跡と言われているが詳細は不明。築営年代不明の石垣はセメント・モルタルも見られず、なかなか見事であり、虎口を形成して構内に導く。更に奥には御堂があり、かなりの高さから周囲を窺えるように工夫されている。石垣の手前に5〜6台分の駐車場あり

2023年04月10日 いれぶん武蔵守
伊奈城[網代城  周辺城郭]



S54に中田正光氏に確認された城址で、北条氏照の時代に設営と推定されている。現在は北郷神社になっていて、社のある本丸には土塁が認められ、虎口もしっかりしている。本丸の先に一段下がった平地があり、二の丸?とも考えられる。駐車は参道手前の伊奈配水所前なら若干の駐車は可能と地元女性より教わりました

2023年04月10日 いれぶん武蔵守
横入沢里山保全地域内施設[網代城  関連施設]



公共の屋根付休憩所で、倉庫・掲示板・男女別水洗トイレと水栓があります。阿伎留城・唐松山城攻略拠点として便利です。3〜4台分の駐車スペース有り

2023年04月10日 いれぶん武蔵守
網代観光トイレ[網代城  トイレ]



男女別無料公共水洗トイレ。使用中程度の短時間であれば、網代自治会館前に駐車可能ではないかと、地元女性に教わりました

2023年03月03日 いれぶん武蔵守
引田城(志村館)[網代城  周辺城郭]



南側の秋川に面して段丘となっている地形の端にあり、熊野神社がその主郭跡地とされています。武田遺臣である志村景元は後北条家の庇護を受ける事が出来て、この地を得ました。志村館とも言われます。切り立った崖ですが比較的緩やかだと思える位置に竪堀らしい箇所もあり、東南の対岸には根小屋城が認められます。

2022年09月17日 ファン掃部助トム治郎
網代城



秋川駅から滝山街道を南へ。根古屋城を経由し、秋川丘陵を西へ。雹留山、重忠の駒つなぎ石。古甲州道と一致したルートですが私は、東電の鉄塔管理路を通り五日市GCへ。再度北へぬけ古甲州道と合流して網代弁天山へ上り網代城を歩き高尾神社へ下山。武蔵五日市まで。4時間くらい。

2022年06月05日 うっきー
網代城



武蔵五日市駅から歩いて登城。Googleマップに従って歩いていたら、結局一つ前の駅で降りた方がよかったことが判明。弁天山経由して歩いたのですが、後からこちらが大手道であることが分かり結果オーライではありました。城の曲輪跡には説明板が建てられています。

2020年08月26日 ️…
網代城

解説板より↓
『網代城跡
15世紀中頃、農山村の地侍(武士)達は山村民らの指導者として各地に村単位の自営権力を保持し「南一揆」と呼ばれる武装集団を成立させていた。この山城は、そうした者達によって利用されていたと考えられてる。この様な小規模な山城は、村人らの兆散(領主の重税などからのがれる)の場としても使用されていた。16世紀中頃、八王子の滝山城に入城した戦国大名北条氏照により南一揆は解体し、網代城は滝山城の支城として再び役目を果たしたと考えられている。』

2015年06月28日 やまと相模守
阿伎留城[網代城  周辺城郭]

城基本情報では、三内神社が比定地。神社はJR五日市線の向こう側にあり、線路を渡ったところに駐た1台分のスペースはあるが、とめずらい雰囲気。神社も城郭も広くないので短時間なら可能か。

2010年06月28日 ️…
阿伎留城[網代城  周辺城郭]

阿伎留城だけに3分も居れば「飽きる」でしょうから、別ネタを。約500m東にある大悲願寺は、かの独眼竜・伊達政宗が鮎漁で秋川渓谷に来た時に立ち寄った場所です。

その際、庭に咲く白萩を一株所望したそうですが、このエピソードがなければ、銘菓「萩の月」は、この世に存在していなかったかも。ちなみに、政宗が立ち寄ったのは大悲願寺に弟が在山していたからであり、この人物が政宗に斬られたはずの小次郎であるとも云われています。

2010年06月28日 ️…
阿伎留城[網代城  周辺城郭]

三内神社周辺が城跡ですが、明確な遺構、石碑、解説板・・・いずれも存在しません。拝殿の画像を撮影しようとしたら、中から「ガサガサッ」っと物音が。一瞬、「敵襲」かと思いましたが、右横に回り込むと、破れた屋根に2匹のイタチが住み着いているのが見えました。

網代城の周辺スポット情報

 平井館堀切跡(遺構・復元物)

 自然岩城門礎(遺構・復元物)

 横沢入からの阿伎留城登り口(碑・説明板)

 別れ道説明(碑・説明板)

 石山ノ池(碑・説明板)

 三内神社(天竺山)案内(碑・説明板)

 三内神社本社(碑・説明板)

 阿伎留城(周辺城郭)

 引田城(志村館)(周辺城郭)

 伊奈城(周辺城郭)

 唐松山城(周辺城郭)

 上平井館(周辺城郭)

 平井館(周辺城郭)

 広德寺うら山城(周辺城郭)

 今熊城(周辺城郭)

 三内神社(寺社・史跡)

 畠山重忠・駒繋ぎ石(寺社・史跡)

 禅昌寺(寺社・史跡)

 八幡神社(寺社・史跡)

 広徳寺(寺社・史跡)

 大宮神社(寺社・史跡)

 宝泉寺(寺社・史跡)

 真照寺(寺社・史跡)

 大悲願寺(寺社・史跡)

 網代観光トイレ(トイレ)

 広徳寺公衆トイレ(トイレ)

 (禅昌寺)駐車場(駐車場)

 横入沢里山保全地域内施設駐車場(駐車場)

 今熊山駐車場(駐車場)

 横入沢里山保全地域内施設(関連施設)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 重忠橋(その他)

 伊奈城登城口(北郷神社参道)(その他)

 古甲州道(その他)

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