阿伎留城

阿伎留城([網代城  周辺城郭])

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阿伎留城の口コミ情報

2025年12月11日 マグロ常陸介祐平


三内氏のお城と伝わります。風土記稿によると、阿伎留城のある三内村は、三宮四郎綱遠が開墾し、孫の中務太輔國政の時に名字をもって三宮村となり、4代孫の現左衛門昌國が名字を三内と改めたことにより疑わしき説ではあるが、三内村に改名されたとしています。また、旧家として三内氏を次のように解説しています(懐疑的なことも含め、お城のことを要約した内容の為、全文載せます)。「百姓隼人 隼人此村草創の百姓にして、世々名主役を努め、三内を氏とせり。家譜を閲するに、先祖は伊予守頼信(※源頼信)より出て、其後五代の孫四郎綱遠に至り、始て三宮を氏とす、萬里小路大納言某卿に仕え、鎌倉の北条泰時と数度合戦のことありて、武蔵国阿伎留山居城すといへり、その子四郎政行父に継て阿伎留城に住して、孫中務大輔國政の時、正五位上に任じ阿伎留宮の社務職を勅許ありしと。阿伎留宮と云は三内明神のことなるべし。夫より四代の孫源左衛門昌國に至り、故ありて氏を三内と改めしとなり。此家譜に云所は他の書にいまだ見ざることにて、いと疑はしきものなれど、今も三内明神現存して、かの神主三内対馬もこの末流なるよしをいへば、旧家なることはしらる。恐らくは家譜は後人の手に成しものなるべし。家に元亀三年房兼と云人より西又十郎に与えし感状を持伝えり、この又十郎は中務大輔國政が二男なる由、家譜には載たれどこれも全く後に書加へしものと見ゆ、感状の文左の如し。」感状は、蘇原表?の働き(頸1つ他)を賞したものです。内容を疑う言葉が何度も出ますが、戦国期には北条氏に属す武士として戦に出ていたようで、近くにある大悲願寺の過去帳に「天正十八年六月二十五日於八王子城討死・浄心禅定門俗名三内中務」「天正十八年七月十一日於小田原城討死・道雄居士俗名三内蔵人」とあるようです。

お城は天竺山(古くは秋留山)の山頂に位置しています。山はほぼ独立したもので、山頂には三内神社の奥宮が鎮座しています。山麓の自治会館から山頂のお城まで、明らかな城郭的構造は見られませんが、山頂からの展望はよく、東京サマーランドが良く見えました。三内神社の神職は前記の三内氏で、江戸時代吉田家の門流で有竹長門の配下として山麓に住んでいたと記述されることから、戦国期も山麓に居住し、有事の際に詰める城として存在する簡易的なものだったと思われます。

近くにある大悲願寺は、文化財が豊富な見応えのあるお寺ですので、攻城の際はこちらもオススメです(写真8枚目)。

2015年06月28日 やまと相模守
城基本情報では、三内神社が比定地。神社はJR五日市線の向こう側にあり、線路を渡ったところに駐た1台分のスペースはあるが、とめずらい雰囲気。神社も城郭も広くないので短時間なら可能か。

2010年06月28日 ️…
阿伎留城だけに3分も居れば「飽きる」でしょうから、別ネタを。約500m東にある大悲願寺は、かの独眼竜・伊達政宗が鮎漁で秋川渓谷に来た時に立ち寄った場所です。

その際、庭に咲く白萩を一株所望したそうですが、このエピソードがなければ、銘菓「萩の月」は、この世に存在していなかったかも。ちなみに、政宗が立ち寄ったのは大悲願寺に弟が在山していたからであり、この人物が政宗に斬られたはずの小次郎であるとも云われています。

2010年06月28日 ️…
三内神社周辺が城跡ですが、明確な遺構、石碑、解説板・・・いずれも存在しません。拝殿の画像を撮影しようとしたら、中から「ガサガサッ」っと物音が。一瞬、「敵襲」かと思いましたが、右横に回り込むと、破れた屋根に2匹のイタチが住み着いているのが見えました。

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