戸吹城(とぶきじょう)
戸吹城の基本情報
通称・別名
- 根小屋城、二城城、新城
所在地
- 東京都あきる野市上代継/八王子市戸吹町
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 北条氏?
築城年
- 永禄12年(1569)?
主な改修者
- -
主な城主
- 大石氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
網代城(東京都あきる野市)[3.3km]
二宮城(東京都あきる野市)[3.4km]
高月城(東京都八王子市)[3.7km]
滝山城(東京都八王子市)[4.7km]
小田野城(東京都八王子市)[5.3km]
浄福寺城(東京都八王子市)[5.7km]
八王子城(東京都八王子市)[7.3km]
戸倉城(東京都あきる野市)[7.4km]
横山党館(東京都八王子市)[7.9km]
初沢城(東京都八王子市)[8.8km]
戸吹城の解説文
戸吹城の口コミ情報
2024年09月24日 いれぶん[⭕️雁雁]
法蓮寺[戸吹城 寺社・史跡]
1304年開山された時宗の寺です。日奉一族の川口氏に庇護されていて、扇谷上杉氏に属していた川口氏が川越夜戦(1546年)後に伊豆に移転した後は甲斐武田氏が保護していたと、寺のHPにあります。その縁からか松姫と共に逃れてきた小督姫が遊行上人の導きで出家しています。
幕末の頃、千人同心であった幕府方の川口村出身の原子剛は戦死、楠正重は帰郷し道場を開き剣の指導をしています。
勝海舟の題字により原子剛の碑が、天然理心流の小谷田洞水らで楠正重の碑が建てられ、寺に残されています。
城には全く関係有りませんが、元ファンキーモンキーベイビーズのDJケミカル氏の実家であり、現在副住職を勤めている事で多くのファンが訪れている場合があります。駐車場は10台程度ありますが、混んでいる場合もありますのでご注意ください。
写真①②③④
①楠正重の碑、山門入った左にあります
②原子剛の碑、寺の西南部分にあります
③本堂
④山門
2024年09月06日 いれぶん[⭕️雁雁]
桂福寺[戸吹城 寺社・史跡]
天然理心流二代目宗家・近藤三助は、多摩郡名主坂本家出身(坂本戸右衛門長男)で、桂福寺は菩提寺になります。
天然理心流は千人同心も多くが学んでおり、三助やその弟子にあたる増田蔵六(坂本十右衛門の子)が千人同心であったとされていて、二人とも千人以上の弟子がいたとつたえられています。増田蔵六の墓は元本郷町の善龍寺にあります。
また、新撰組との関わりも有名で、近藤勇が四代目宗家である以外に、土方歳三・沖田総司他多数が学んでいます。
こちらには二代目近藤三助と初代近藤内蔵之助の墓がありますが、新撰組との関わりを知られないように墓石が破壊されて土に埋められて隠されていました。滝山街道拡張で掘り返されて発見され、繋ぎ直して寺に納められています。
(以上、wikiや善龍寺HPからの情報まとめ直し)
武田家臣・徳川家臣として生き延び、新撰組とも関わってきた歴史をしみじみ感じいるよい機会を得た事を感謝し、お暇いたしました。
2023年11月14日 いれぶん[⭕️雁雁]
川口兵庫介館[戸吹城 周辺城郭]
調井台と呼ばれるこの丘には中世の頃豪族として栄えた川口氏の館があった。
川口氏は武蔵七党の西党に属し草創の鎌倉幕府に貢献した。川口氏は応永年間兵庫介幸季の時代に最も繁栄した。南北朝室町時代戦国時代へと歴史は移り、関東は戦乱の時代をむかえた。川口氏も一党を率いて関東の山野に戦い、管領上杉氏の争いには扇谷定正の幕下にあって勢威を振るい、山内顕定と対峙した。やがて武相の覇権は大石氏から後北条へと移り、隆盛を極めた川口氏も歴史の波に埋没していった。
しかしその事績は今に残り、圓福寺の寺宝大般若経典書に願主川口兵庫介幸季の名が見られる。これは大幡宝生寺の住職明鑁らの書写に依り鳥栖寺へ納められたものである。又、長楽寺の都重要文化財薬師如来像や、度重なる火災を免れて現存する鳥栖観音などに、往時の繁栄を偲ぶことができる。
宅地化に景観が失われつつある昨今郷土の歴史を後世に伝えたく、嘗て川口一族を涵養し法蓮寺を望むこの丘に有志相計り館跡碑を建立する。
昭和五十六年五月
撰文 郷土史家 佐藤孝太郎
奥住忠一 書
(側碑の説明文全文。碑裏面には三十三代に及ぶ当主名が刻まれている)
秋川街道沿いに忽然と屹立する台地は、等高線が2本挟まるからおよそ15mほどの高さであろうか。東西に谷川が走り、自然の地形による防備と水理、遠望を確保した土地は、西党の一族として相応しい。切り通しで作られた館の進入口は横矢掛けを成し、両側は掘り残し土塁状にも見える。館範囲や施設については不詳なのが残念だが、"調井"の地名は上杉氏が八王子城攻め時に平井無辺を調略し準備を整えたと伝えられるので、それなりの偉容を残していたのかもしれません。
写真は石碑柱、側碑、秋川街道からの進入口を示す小石碑柱、西端の谷川、秋川街道と進入口、北側の遠望
2022年03月13日 長森原
戸吹城
秋川南岸の丘陵断崖に築かれた戸吹城。
城内に祀られている祠の前を、丘陵の稜線に沿って東西に「秋川丘陵ハイキングコース」が通過していますが、実はこれは古甲州道と呼ばれる古道です。
古甲州道は古代に甲斐国府と武蔵国府(府中)を結んでいた道で、中世においても甲府と武蔵を結ぶ軍事的に重要な道でした。
この古甲州道沿線に築かれているアプリ登録城としては、他に滝山城、網代城、戸倉城、檜原城、杉田屋敷、於曽屋敷、連方屋敷、甲府城、躑躅ヶ崎館などが挙げられます。
戸吹城の南部分では、この古甲州道を間に挟んで横堀と細長い郭が配置されており、戸倉・網代から滝山に抜ける古甲州道の関所的な役割を果たしていたのではないかと思われます。
戸吹城本郭は、そこから北に半島状に細尾根が突き出した所にあったそうですが、今は崩落が進んでおり立ち入ることはできません。
しかし秋川を眼下に見下ろす立地だった戸吹城本郭からは、おそらく対岸の秋留台地を南北に縦断する複数の鎌倉街道と、それらが合流する秋川渡河点が監視できたものと思われます。
戸吹城から東1.8kmにある現・東秋留橋付近には、秩父と鎌倉を結ぶ鎌倉古道の秋川渡河点である「雨間の渡し」がありました。
また、戸吹城西2kmの地点にある現・山田大橋付近は、古甲州道と鎌倉街道山ノ道の秋川渡河点がありました。
どちらも戸吹城本郭から、地形的に視認可能です。
※なお、「秋川丘陵ハイキングコース」についてですが、戸吹城同様、崩落しつつあり、現在通行止めになっているようです。
戸吹城見学の際には、十分ご注意ください。
2021年08月06日 平大宰大弐清盛
戸吹城
南側は遺構が残り虎口や土塁がはっきりとわかる。だが、北側は行かない方がいい。すこし足を滑らせれば、崖の下に真っ逆さま。
2017年12月31日 カーネル
戸吹城
先人の書き込みやネットでの情報で、南曲輪から北曲輪へ向かう土橋が脆くて崩落寸前のため、本丸には行けないとのこと
なので、北東の尾根から本丸へ向かってみました
五日市線の秋川駅から東にでて、国道411号線で南下して、秋川を渡ったら右折して東京サマーランドの駐車場へ
詳細は省きますが、ここから尾根になんとか取りつき、本丸に向かいます。駐車場から丸見えなので、冬の早い時間だと人が少なくていいと思います
尾根は踏み跡がありますので辿ります。土橋が細くて北側が崩落してるので、なるべく南側を進みます
本丸の北側も、エグいくらいに崩落してるので、際は行かない方がいいも思います
本丸南側はキレイな横堀がありました。南側には下りれないので、来た道を戻って往復1時間半でした
2017年11月19日 フー甲斐守
戸吹城
エフピコと日清食品の工場を右手に見つつ、ベーカリーそら(ドックラン併設)方面に。途中私有地の表示がありますが入っていけます。戸吹城址の表示も何箇所かありますが、無ければ天狗山方面へ。車は登城口向かいに天狗山用の駐車場が有りますが、私が行った11時頃にはほぼ満杯でしたし、そこ迄の道は狭いです。登城口の写真はアップしておきます。急坂を登ると南廓の虎口に。
社があり、ハイキングコースが通っていますが、両サイドが崖なんで慎重に行動して下さい。主郭には行けません。進入禁止のロープは簡単に乗り越えられると思いますが、恐らく崩れやすい地質なんだと思いますので、大人の判断で引き返しましょう。削平地、堀切、土橋、地形を利用した竪堀などそこそこ遺構は残っています。私は戸吹ゆったり館(戸吹清掃工場の余熱を利用した温浴施設)に車を止めて歩いて登城口まで(約20分)。城址巡りは約40分位です。城メグ後、もちろん温浴施設で汗流しました(^o^)ご参考まで。
この城に関する史料は残っておらず、詳細は不明である。また地盤の崩落が激しく、明確な遺構も残っていない。
現地には案内板もあるが、城跡は険しい山になっており、立ち入り禁止の場所もあるので、訪れる際は注意が必要である。