横山党館(よこやまとうやかた)
横山党館の基本情報
通称・別名
- 横山党根拠地、伝横山党館
所在地
- 東京都八王子市元横山町2-15-27(八幡八雲神社)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 横山氏
築城年
- 平安時代
主な改修者
- -
主な城主
- 横山氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 都旧跡(横山党根拠地)
再建造物
- 説明板(横山党根拠地)
周辺の城
-
片倉城(東京都八王子市)[2.4km]
平山季重居館(東京都日野市)[4.4km]
滝山城(東京都八王子市)[4.6km]
由木城(東京都八王子市)[5.4km]
初沢城(東京都八王子市)[5.8km]
高月城(東京都八王子市)[6.0km]
小田野城(東京都八王子市)[6.6km]
高幡城(東京都日野市)[6.8km]
立川氏館(東京都立川市)[6.9km]
八王子城(東京都八王子市)[7.6km]
横山党館の解説文
横山党館の口コミ情報
2024年09月08日 いれぶん武蔵守
信松院[横山党館 寺社・史跡]
市指定史跡
松姫尼公墓
所在地八王子市市台町三丁目十八番二十八号
指定年月日 昭和三十一年三月三十日
松姫尼公は、永禄四年(一五六一)武田信玄の四女(六女ともいう)として生まれ、七才の時に織田信長の長男信忠と婚約したが、その後、武田・織田両家が不和となってこの約束は果たされなかった。
天正十年(一五八二)武田氏滅亡の際、姪たち数人と八王子に逃れ、二十二才の時、下恩方町の曹洞宗心源院六世随翁舜悦ト山禅師のもとで出家し、後にこの地に庵を建て信松院を開基せられたのである。元和二年(一六一六)五十六才で没した。
法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼である。
令和二年三月三十一日
八王子市教育委員会
(案内看板全文)
信松院
武田信玄の娘である松姫は、元武田家の家臣である千人同心や大久保長安の心のよりどころでもあり、墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したもの。
また、一緒に甲斐から逃れてきた松姫の兄・仁科信盛の娘・小督(出家して玉田院)の墓は大横町の極楽寺にある。
(東京都指定旧跡)
仁科信盛の孫・仁科資真が尼公百回忌に寄進した木製軍船ひな形と寄進目録は東京都指定文化財。この軍船は朝鮮出兵の時、小早川隆景軍が使用した軍船の小型模型といわれている。
また、木造松姫坐像は市指定文化財。
(見学は予約が必要)
(案内看板全文)
2024年09月07日 いれぶん武蔵守
法蓮寺[横山党館 寺社・史跡]
法蓮寺
千人同心・並木以寧の墓がある。並木以寧(1769〜1844)は千人同心組頭を務め、医業も行う。天保の飢饉の後(1839年)、元八王子村に畑を買い、そこからの収入を極貧者に分け与えた。私塾を開き、弟子も多く、墓には「筆門五百余人造立之」と刻まれている。
(観光案内看板より)
八王子千人同心歴史探訪
並木以寧の墓
以寧は、千人同心組頭で虎見良蔵といいました。医業を行うかたわら、元八王子に「養老畑」を設置し庶民の救済費にあてた人物です。書道の弟子も多く、墓石には門弟500名余りと刻まれています。
<八王子市上野町 法蓮寺>
八王子市教育委員会
(案内看板和文全文)
2024年09月07日 いれぶん武蔵守
本立寺[横山党館 寺社・史跡]
本立寺
千人頭·原家2代胤従の開基。10代原胤敦墓は都の指定文化財。原胤敦(1747〜1827)は幕府に願い出て寛政12年(1800)北海道の開拓に着手、白糠(白糠町)に着任。隣には弟・原新介胤暉の墓がある。新介は勇払(苫小牧市)に着任。胤敦は『新編武蔵国風土記稿』の編さんにも従事した。
また、江戸文化研究家・三田村鳶魚(1870〜1952)の墓がある。
(以上観光案内看板から)
苫小牧市HPに取り上げられてます
https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/shisei/tomakomainitsuite/gaiyo/hachioji.html
2024年08月20日 いれぶん武蔵守
大善寺[横山党館 寺社・史跡]
北条氏照が立川一族の僧に帰依して滝山城下に開基した寺院で、その後八王子城下、大横町と三宿三転に動きを共にしています。現在地には1963年に移転しました
2024年08月20日 いれぶん武蔵守
観音寺[横山党館 寺社・史跡]
千人頭である中村左京屋敷の門を移設して観音寺の山門にしていると伝えられています。高尾付近の旧甲州街道沿いを除き、千人同心関係の遺構は少ないので、貴重な存在になります。
千人組頭であり医者であった秋山親子の墓がこちらの本堂裏にあり、アルファベットのAをデザインした書体で墓石に刻んでいます。
2024年08月20日 いれぶん武蔵守
長田作左衛門屋敷[横山党館 周辺城郭]
長田作左衛門邸跡伝承地
川島作左衛門ともいい、元は北条氏照の家臣で、八王子城落城後、前田利家に取り立てられ、大久保長安の指揮のもとに新しい八王子の町づくりをおこなった人物といわれている(?〜1617)。大横町の極楽寺に墓があり、東京都の旧跡に指定されている。江戸時代末の嘉永5年(1852)に造立された供養塔で、塚がともに築造されたことが調査によりわかっている。
(史跡案内看板より該当部分抜粋)
残念な事に現地に残るものは無い。野猿街道と甲州街道の交差点で、交通の要衝であった事が感じられるだけになります。現在の八王子横山町郵便局が屋敷跡であると伝承されています
2024年08月19日 いれぶん武蔵守
極楽寺[横山党館 寺社・史跡]
新編武蔵風土記稿の子安宿の部分に極楽寺の記載があります。それによると開基は1504年で滝山城下丹木に僧が草庵を開き、滝山城主一式氏が堂宇を提供したとされます。その後、北条氏照の八王子城移転に併せて梶原谷に移り、更に大久保長安により現在地とされてますので、八王子三宿三転と同じ運命を辿っています。尚、1945年の八王子空襲では被害に遭っていません。
氏照、長安が深く関わっている為、北条氏武田氏所縁の史跡(墓)が多くなっています。①仁科信盛女小督姫②北条家臣長田作左衛門③千人組頭塩野適斎。これらは全て東京都指定旧跡ですが、他に④浮世絵師歌川国直があります。
⬜︎玉田院墓
玉田院は俗名を小督といい、武田信玄(晴信)の五男、仁科五郎盛信の娘です。天正七年(一五七九)に盛信の居城である信濃の高遠城で生まれたと推定されます。天正十年(一五八二)、織田軍による甲州攻めの戦禍を避けるため、叔母である松姫らとともに高遠域から八王子へと逃れ、この地で暮らしました。後に、関東の代官頭となり八王子に陣屋を構えた武田氏の遺臣、大久保長安の庇護を受け、寺を寄贈されます。まもなく小督は出家し生弐尼となりますが、病を得て、慶長十三年(一六〇八)に二九歳で没しました。その後、寺は小督の戒名である「玉田院光誉睿室貞舜尼」にちなんで「玉田院」と呼ばれるようになりました。
当初、墓は玉田院にありましたが、元禄年間に廃寺となり荒れ果てていたのを、仁科家の子孫である仁科資真が正德五年(一七一五)に極楽寺へと改葬しました。
(案内看板より)
⬜︎長田作左衛門墓
長田作左衛門は、はじめ北条氏照の家臣であったといわれています。八王子城落城後は前田利家に従ったと伝えられています。その後作左衛門は、八王子城の東方、横山の地に横山宿をつくり市場を発展させました。これは今日の八王子市の発展の基礎となったといわれています。元和三年(一六一七)に亡くなったと伝えられます。
現在残っている供養塔は、天保年間初期に長田氏の子孫である川邊、金丸及び飯島の各氏が願主となり、嘉永年間に建立されたものと言われています。右手にある塚も、昭和六三年の確認調査の結果、同時期に建設されたものと推測されています。
(案内看板より)
大久保長安と同時代に、互いに競いあって八王子を発展させました。武田方・大久保長安は八幡宿、北条方・長田作左衛門は横山宿に力を注ぎ、現在みるような発展を遂げさせています
⬜︎塩野適斎墓
適斎は千人同心の一人であったが、享和年間(一八〇一〜〇四)幕命により蝦夷地(今の北海道)の経営に従った。のち、原胤敦や植田孟縉(ともに墓地は八王子市内にある)らとともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に従い、また相模風土記稿の編纂にも従事している。これらのほかに「桑都日記」「築井県行記」「日光客中漫筆」「文敲」など多くの著書がある。諱は轍、字は子明、通称を所左衛門、適斎のほか笛水とも号している。弘化四年(一八四七)十一月十六日、七三歳で残した。
(案内看板より)
植田孟縉の墓は宗徳寺にあります。元は八木町にありましたが、昭和の区画整理で滝山町に移転しています。原胤敦の墓は上野町の本立寺にあります。
⬜︎ 歌川国直墓
寛政4年(1792)〜嘉永7年(1854)浮世絵師
江戸の初代歌川豊国に入門し、文化年間から天保年間にかけて美人画・挿絵等で活躍するが、天保13年(1842)の天保の改革により人情本が発禁となり、活躍の場を失う。弘化2年(1845)ころから八王子に住む。
(案内看板より)
写真
①②③④
①玉田院墓
②長田作左衛門墓
③塩野適斎墓
④歌川国直墓
2024年08月15日 いれぶん武蔵守
念仏院[横山党館 寺社・史跡]
八王子千人同心歴史探訪
八王子市指定有形文化財
時の鐘
The Bell of Hours
元禄12年(1699)、町の人々に時を知らせようと、八日市宿の名主新野与五右衛門が発願し、千人頭、同心、八王子十五宿の人々の協力で建立されました。
It was built in 1699 to notify town people of hours. The idea was put forward by the famous lord of the Yokaichi-Juku community, NIINO Yogoemon, in cooperation with Sennin Chiefs, Doshin soldiers and members from Hachioji' s 15 towns of inns.
<八王子市上野町 念仏院>
八王子市教育委員会
(写真付き案内看板全文)
2024年08月12日 いれぶん武蔵守
八木源左衛門屋敷[横山党館 周辺城郭]
武田家臣の八木源左衛門が、武田家客将である成田友兵衛康成(天目山の戦いで殉死)の一子・秀丸を託され隠れ住んでいた場所で、1990年に秀丸が病死し、源左衛門は出家して福聚寺を同地に開基し、翌1991年に亡くなりました。この寺が宗徳寺の起源になります。宗徳寺は1973年に滝山町に移転しましたが、この地には境内にあったとされる神社数カ所か残り、武田菱紋らしい紋を見せています。
源左衛門屋敷の真南5〜600m程先に松姫が居住した信松庵があり、南東300m程には大久保長安陣屋があります。1582年からこの地に住み続けた源左衛門が松姫には心強かったでしょうか。長安にとっても住み良い環境になっていたと考えられる、千人同心にも重要な地点であっただろうと思われます。
写真は社に武田菱紋を持つ伏見稲荷神社で、八木町東端にある
2023年11月02日 おじゃるまる式部大輔
横山党館
JR八王子駅から、国道20号線方面に歩きました。徒歩10分くらいで、八幡八雲神社に到着。境内は静かで雰囲気も良かったです!
2022年02月23日 ムク胆振守導庵
横山党館
横山党館 2022/2/22
八王子の八幡八雲神社の境内にある横山党開祖・横山義孝を祀る横山神社が館跡付近のようです。
車で行きましたが、神社前は一方通行なので、いちょうホール通りの八幡八雲神社北より入りました。
平日の午後に訪れました。近所の人らしき数組が参拝されており、参拝順が同じになった親子(母娘)に挨拶をしたら、素敵な笑顔とともに返していただけました。心が温かくなれる場所でした。
2021年11月25日 四間飛車左衛門佐とみー
横山党館
2021年11月20日、八王子攻城ミニ縦走その4
滝山城攻略後、バスで八王子駅近くの横山党館に向かいました。横山町1丁目のバス停から商店街を抜けて徒歩7分くらいです。今は八幡八雲神社になっており、七五三祝いの親子連れが何組か来て穏やかな雰囲気でした。
2021年07月30日 最上中務大輔一輝
横山党館
街中の商店街を抜ける野猿街道が表参道扱いか。その脇の小径にはいまも料亭が佇む。
近くの都まんじゅうは八王子の庶民の味。
2021年07月08日 長森原
横山党館
武蔵七党のうち最大の武士団であった横山党の本拠地、横山党館。
今は八幡八雲神社境内に、横山党開祖・横山義孝を祀る横山神社が残るのみで遺構はありません。
御神木の洞の中にひっそり小さな板碑が納められていて、そこだけ中世の面影を偲ばせました。
立地的には、横山党館は中世の主幹道路であった川越道沿いにあり、道の反対北東側には鎌倉時代創建の大義寺もあって、この辺りが中世初期の八王子の祭政の中心地であった事が伺えます。
2021年03月28日 明石家船上
横山党館
八王子市内の住宅地の中に神社はあるが、遺構はない。地名に横山町とついている。
鎌倉時代初期、建暦3年の「和田合戦」では横山党は和田義盛と姻戚関係があり与したが、北条氏に負け、横山荘の所領を取り上げられた。横山党は散り散りになり、全国へ横山氏が広がった。
取り上げられた所領は、大江広元へ授けられ、八幡神社(源氏の氏神)と八雲神社が勧請された。
神域内に、小さく横山神社が残っている。
国道20号線から、神社への入り口にあたる角に、荒井呉服店仮店舗があり、目標となる。
神社は野猿街道に面している。🙈🙊🙉
明治から大正にかけて、この地域は養蚕が盛んで、生糸関係者はよく儲かり、大尽遊びが盛んであった。灯籠は、遊廓が寄進したもの。
2020年08月22日 domdomdom大宰帥
参拝者駐車場[横山党館 駐車場]
駐車場の進入経路は一方通行なので注意する‼️
2019年02月12日 三ツ鱗▲钁湯無冷所
横山党館
八王子まつりの上社の山車を出す、神社です。横山党発祥の地と言う事もあり、八王子市内では「横山」と言う地名が今も多く存在しています。万葉で詠われた防人歌の「多摩の横山~さらさらに」と言う横山は、八王子丘陵を指します。横山党の名前の横山は、この丘陵から来ていると言う説があります。
この横山党の本拠地があった場所は諸説あるが、現在の八幡八雲神社が有力であるとされている。
神社内の案内板に横山氏ゆかりの土地である旨の記載はあるものの、遺構などは特に残っていない。