横山党館(よこやまとうやかた)
横山党館の基本情報
通称・別名
- 横山党根拠地、伝横山党館
所在地
- 東京都八王子市元横山町2-15-27(八幡八雲神社)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 横山氏
築城年
- 平安時代
主な改修者
- -
主な城主
- 横山氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 都旧跡(横山党根拠地)
再建造物
- 説明板(横山党根拠地)
周辺の城
-
片倉城(東京都八王子市)[2.4km]
平山季重居館(東京都日野市)[4.4km]
滝山城(東京都八王子市)[4.6km]
由木城(東京都八王子市)[5.4km]
初沢城(東京都八王子市)[5.8km]
高月城(東京都八王子市)[6.0km]
小田野城(東京都八王子市)[6.6km]
高幡城(東京都日野市)[6.8km]
立川氏館(東京都立川市)[6.9km]
八王子城(東京都八王子市)[7.6km]
横山党館の解説文
横山党館の口コミ情報
2024年10月25日 いれぶん[⭕️雁雁]
富士塚[横山党館 遺構・復元物]
大久保石見守長安が築き、頂上に浅間神社を勧請して本殿としています。
八王子は北西南を山地とした盆地上の地形ですが、南側の麓を松姫様の住まいとし、ほぼ山頂部にあたるこの辺りに富士塚と神社を置いた事で、宗教的な心の支えを甲斐からの移民にもたらしたのかなと思います。盆地の南に富士があるのは甲州と同じです。
浅間神社縁起
浅間神社は『木花咲耶姫』を祭神とし、一に富士浅間様とも言い、駿河国の本宮浅間神社から分社したものです。
慶長年間(1596〜1615)、大久保石見守長安が高さ約二丈(6m)周囲六十間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起原です。この場所は、往古より樹木生い茂れる森にて、藤森と言い、塚も藤塚と書かれておりましたが、富士浅間神社創立後は富士森又は富士塚と書くようになりました。
宝永二年頃(1705頃)社殿破壊に及び、延享二年(1745)改めて石造りの祠を再建しました。(現在の本殿内に安置されている祠になります)
例大祭は八月一日で七月三十一日の宵宮には参拝者で雑踏し境内には団子を売る商人が軒を連ね、この団子を食べる者は暑気あたりしないとの言い伝えに、別名『団子祭り』と呼ばれるようになりました。
この団子祭りの起こりは、明治の中頃社頭に住居して宮守をして居た者が、当社に献じた洗米で団子を作り、希望者に分け与えたのが始まりといわれています。例大祭に行う、湯の花の神事は心身の汚れを祓い清めて氏子一同が神に奉仕をする意味と共に、神事で行う湯立をした湯を飲むと『だんご』同様のご利益が得られると言われております。当社は子授かり、安産の神として信仰されていますが、その由来は、天照大神の御孫、瓊々杵尊の皇后である当社の祭神木花咲耶姫命が一夜にして身ごもったために夫の尊より疑いを受けた際、身の潔白を証明するため、産屋に火を放ち、火中で皇子を安産されたと言う故事に起因するものです。
現在の拝殿は昭和二年に大正殿(大正天皇の大喪の義で祭場殿として使用した建物)であったものを昭和二十八年に下賜、移設されたものです。(公園入口の『大正殿』の標石は昭和四年建立)本殿および天明六年(1786)に建造された本殿へ登る石の階段は、令和元年に氏子多数のご奉賛により新築・改修をされました。古い歴史をもつこの浅間神社は現在、台町一丁目・台町二丁目・台町三丁目・台町四丁目・万町二丁目の五町会でお護りされています。
お問合せ連絡先・八幡八雲神社社務所 042-623-0720
令和五年七月三十一日
浅間神社年番町会台町一丁目
(説明看板全文)
2024年10月25日 いれぶん[⭕️雁雁]
大谷弁財天[横山党館 寺社・史跡]
言い伝えでは、八王子千人頭萩原家が天明大飢饉(1782年)の際に、水田灌漑用水池として溜池を成したとされていますが、残念ながら文書記録は残ってないようです。千人同心関係の遺構は門・板塀・鐘等の建築関係は多少ありますが、土木工事だと旧甲州街道沿いの水路や、大久保長安による石見土手・富士塚くらいしか往時を偲べませんので、こちらも貴重かと思われます。三つ鱗紋の理由はわかりませんでした。
2024年10月22日 いれぶん[⭕️雁雁]
妙薬寺[横山党館 寺社・史跡]
横山党横山氏の供養塔(氏照期の物)と武田家臣山本勘助の曽孫である山本張六夫妻と伝えられる墓があります。西側にある墓地内に入って直ぐを塀沿いに南下して、塀からの出入口扉を開けた向こう側にあります。
薬師堂の別当寺として創建されていて、薬師堂の他にも古い御嶽の社や石見土手に似ている石積もあります。こちらは薬師堂裏を南下して鳥居をくぐった向こうです。
三ツ葉葵紋は家光より7石の御朱印状を賜った事によるようです。
[妙薬寺の縁起]
(元横山村)薬師堂
村の東の方にあり、三間四面、御朱印堂領七石を賜へり、別當寺しばしば回禄にあひて、記録なければ詳ならず。
別當妙薬寺。新義真言宗にて、宇津木村龍光寺末、醫王山聖天院と號す、開山のこと詳ならず、本堂六間に四間、本尊大日は立像にして、長三尺許。
横山氏石塔。薬師堂の前にたてり、昔は境内より十四五歩へだてし字木の下屋敷と云所の百姓かまへの内にありしを、百五十年前にここへ移せしと云、高さ五間ばかり、五輪のごとき塔なり、第二層に梵字あり、第一層には四方に文字あれども滅してよむべからず、ただ横山殿の墓とのみつたへて、その名をつたへず、この墓の舊蹟には、土中に石函ありと云ふ、されどそれを動すときは殃ありとて、近くものだになし。
(新編武蔵風土記稿)
[妙薬寺 法累塔縁起]
當山創立は北朝後光巌帝文和四年(一三五五)清遍律師供養師となり薬師堂創草に始まる、續いて後小松帝明徳二年(一三九一)清承法印河内國延命寺より法縁これあり、本尊不動明王共に歓喜天像を相受け來り、山号を医王山、院号を聖天院、寺号を妙薬寺と名付く、下って慶安二年(一六四九)三代将軍家光公より栄理法印御朱印拝領、明鑁法印代(文政、一八〇〇、十一代家斉公)表門建立、明治初年散田村福泉寺を合併開創以来六百二十年
境内に横山将監小野秀綱の供養塔(永禄三年一五六〇)あり室町期作宝篋印塔-都重文-、甲斐武田家臣山本張六夫妻の墓(近江源氏新羅三郎義光の裔にして勘助の曹孫)あり、現住に至りて世二代あたかも昭和五十九年は弘法大師御入定千百五十年、棺納この忌に當り報恩の為め十三層塔を建立す
仏塔は釈迦尊滅后その舎利を八分八塔を作りしに始まり後東洋諸国に行わる又塔建立の功徳は賽の河原の説話、年忌法要に當り卒都婆建立の習わし等周知の如し、以上縁起共に層塔建立の趣旨記して如斯
昭和五十七年十二月
妙薬寺現董末資 秀光識
(石碑全文)
写真説明
①②③④
⑤⑥⑦⑧
① 本堂前右手の石碑・妙薬寺法累塔縁起
②横山氏供養塔
③山本張六夫妻の墓
④薬師堂
⑤本堂
⑥薬師堂奥の鳥居
⑦石見土手に似た石積
⑧供養塔・夫妻墓に至る扉
2024年10月18日 いれぶん[⭕️雁雁]
横山神社[横山党館 寺社・史跡]
横山神社由緒略記
往古より「多摩の横山」は名馬の産地として世に名を知られており、平安の御代には陽成天皇の私牧 (御料牧場) として発達し、延長二年(九二四) 武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宫(現在の八幡八雲神社)を祀り、天慶二年(九三九)「将門の乱」の翌年に動使牧(国営牧場)となった「横山の牧」に武蔵権之守に任是られた小野義孝は小野姓を横山氏に改め、八幡宮を中心に祭政一致を行い、ここに定住されました。この御方が武蔵七党の一つである横山党の始祖であり、日本における「横山姓」の始まりであります。孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする小野氏一族は小野妹子、篁、道風、小町などの逸材を輩出し、その血筋を引く横山氏は後々の世にまで武士の鏡として数々の「物語」の中に語られております。又、源氏一族との深い結び付きにより代々、源氏の嫡子の誕生に際しては「引目、鳴弦の神事」を行っておりました。
横山義孝の孫、経兼は「前九年の役」(一〇五一〜一〇六二)陸奥守源頼義に従い先陣を賜り敵将安倍貞任の首級をあげ首懸けの儀を担当いたしました。
その子孫たちは保元、平治の乱に参加し、一の谷、屋島、壇の浦の合戦に活躍し「平家物語」にも語られております。又その子孫の横山野新太夫隆兼の子、横山散位権守時重の妹は鎌倉幕府の侍所の所司を務めた梶原景時の母であり、時重の娘は侍所の別当和田義盛の妻となっております。
横山一族の男達は義を貫き、勇をもって世の中が平和になるよう鎌倉幕府創業に尽力しました。建久元年(一一九〇)の頼朝上落のおり、騎馬にての随兵の総数三一八騎、そのうち武蔵出身の武士は約一四〇騎で半数近く、又、横山党の面々は上洛武士の一割を超える三十数騎を占めたという事が「吾妻鏡」に語られております。
正治元年(一一九九)源頼朝の死後、北条一族の台頭により梶原氏が失脚し、和田一族に対する北条の陰謀に、横山右馬介太郎時兼は義慣を感じ、建暦三年五月三日(一二一三)「和田義盛の乱」に荷担し、一族合戦に及びましたが時節利なく横山の人々之討死いたしました。この時、累代の所領である横山庄は没収されましたが、時兼の子、野内小名犬房重時は生かされ、その子孫は全国に散り、後の世に武勇を表しました。
乱の後、横山庄は大江広元(鎌倉幕府、政所の別当)の支配となり、一年後の建保二年(一二一四)に開祖横山義孝の御霊を鎮め、八幡神社をお守りする御社として「横山神社」が創建されました。
現在では、八王子の地名発生の神と言われる八雲神社とともに、八幡八雲の両社をお守りする神社として境内にお祀りされ、東京都の旧跡に指定されております。
御神徳といたしましては、家内安全・無病息災・学び事の成就・商売繁盛などがあるといわれております。
八幡八雲神社奉賛会
第五回全国をぐりサミット実行委員会
(由緒書看板全文)
2024年09月08日 いれぶん[⭕️雁雁]
信松院[横山党館 寺社・史跡]
市指定史跡
松姫尼公墓
所在地八王子市市台町三丁目十八番二十八号
指定年月日 昭和三十一年三月三十日
松姫尼公は、永禄四年(一五六一)武田信玄の四女(六女ともいう)として生まれ、七才の時に織田信長の長男信忠と婚約したが、その後、武田・織田両家が不和となってこの約束は果たされなかった。
天正十年(一五八二)武田氏滅亡の際、姪たち数人と八王子に逃れ、二十二才の時、下恩方町の曹洞宗心源院六世随翁舜悦ト山禅師のもとで出家し、後にこの地に庵を建て信松院を開基せられたのである。元和二年(一六一六)五十六才で没した。
法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼である。
令和二年三月三十一日
八王子市教育委員会
(案内看板全文)
信松院
武田信玄の娘である松姫は、元武田家の家臣である千人同心や大久保長安の心のよりどころでもあり、墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したもの。
また、一緒に甲斐から逃れてきた松姫の兄・仁科信盛の娘・小督(出家して玉田院)の墓は大横町の極楽寺にある。
(東京都指定旧跡)
仁科信盛の孫・仁科資真が尼公百回忌に寄進した木製軍船ひな形と寄進目録は東京都指定文化財。この軍船は朝鮮出兵の時、小早川隆景軍が使用した軍船の小型模型といわれている。
また、木造松姫坐像は市指定文化財。
(見学は予約が必要)
(案内看板全文)
2024年09月07日 いれぶん[⭕️雁雁]
法蓮寺[横山党館 寺社・史跡]
法蓮寺
千人同心・並木以寧の墓がある。並木以寧(1769〜1844)は千人同心組頭を務め、医業も行う。天保の飢饉の後(1839年)、元八王子村に畑を買い、そこからの収入を極貧者に分け与えた。私塾を開き、弟子も多く、墓には「筆門五百余人造立之」と刻まれている。
(観光案内看板より)
八王子千人同心歴史探訪
並木以寧の墓
以寧は、千人同心組頭で虎見良蔵といいました。医業を行うかたわら、元八王子に「養老畑」を設置し庶民の救済費にあてた人物です。書道の弟子も多く、墓石には門弟500名余りと刻まれています。
<八王子市上野町 法蓮寺>
八王子市教育委員会
(案内看板和文全文)
2024年09月07日 いれぶん[⭕️雁雁]
本立寺[横山党館 寺社・史跡]
本立寺
千人頭·原家2代胤従の開基。10代原胤敦墓は都の指定文化財。原胤敦(1747〜1827)は幕府に願い出て寛政12年(1800)北海道の開拓に着手、白糠(白糠町)に着任。隣には弟・原新介胤暉の墓がある。新介は勇払(苫小牧市)に着任。胤敦は『新編武蔵国風土記稿』の編さんにも従事した。
また、江戸文化研究家・三田村鳶魚(1870〜1952)の墓がある。
(以上観光案内看板から)
苫小牧市HPに取り上げられてます
https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/shisei/tomakomainitsuite/gaiyo/hachioji.html
2024年08月20日 いれぶん[⭕️雁雁]
大善寺[横山党館 寺社・史跡]
北条氏照が立川一族の僧に帰依して滝山城下に開基した寺院で、その後八王子城下、大横町と三宿三転と動きを共にしています。現在地には1963年に移転しました
2024年08月20日 いれぶん[⭕️雁雁]
観音寺[横山党館 寺社・史跡]
千人頭である中村左京屋敷の門を移設して観音寺の山門にしていると伝えられています。高尾付近の旧甲州街道沿いを除き、千人同心関係の遺構は少ないので、貴重な存在になります。
千人組頭であり医者であった秋山親子の墓がこちらの本堂裏にあり、アルファベットのAをデザインした書体で墓石に刻んでいます。
2024年08月20日 いれぶん[⭕️雁雁]
長田作左衛門屋敷[横山党館 周辺城郭]
長田作左衛門邸跡伝承地
川島作左衛門ともいい、元は北条氏照の家臣で、八王子城落城後、前田利家に取り立てられ、大久保長安の指揮のもとに新しい八王子の町づくりをおこなった人物といわれている(?〜1617)。大横町の極楽寺に墓があり、東京都の旧跡に指定されている。江戸時代末の嘉永5年(1852)に造立された供養塔で、塚がともに築造されたことが調査によりわかっている。
(史跡案内看板より該当部分抜粋)
残念な事に現地に残るものは無い。野猿街道と甲州街道の交差点で、交通の要衝であった事が感じられるだけになります。現在の八王子横山町郵便局が屋敷跡であると伝承されています
2024年08月19日 いれぶん[⭕️雁雁]
極楽寺[横山党館 寺社・史跡]
新編武蔵風土記稿の子安宿の部分に極楽寺の記載があります。それによると開基は1504年で滝山城下丹木に僧が草庵を開き、滝山城主一式氏が堂宇を提供したとされます。その後、北条氏照の八王子城移転に併せて梶原谷に移り、更に大久保長安により現在地とされてますので、八王子三宿三転と同じ運命を辿っています。尚、1945年の八王子空襲では被害に遭っていません。
氏照、長安が深く関わっている為、北条氏武田氏所縁の史跡(墓)が多くなっています。①仁科信盛女小督姫②北条家臣長田作左衛門③千人組頭塩野適斎。これらは全て東京都指定旧跡ですが、他に④浮世絵師歌川国直があります。
⬜︎玉田院墓
玉田院は俗名を小督といい、武田信玄(晴信)の五男、仁科五郎盛信の娘です。天正七年(一五七九)に盛信の居城である信濃の高遠城で生まれたと推定されます。天正十年(一五八二)、織田軍による甲州攻めの戦禍を避けるため、叔母である松姫らとともに高遠域から八王子へと逃れ、この地で暮らしました。後に、関東の代官頭となり八王子に陣屋を構えた武田氏の遺臣、大久保長安の庇護を受け、寺を寄贈されます。まもなく小督は出家し生弐尼となりますが、病を得て、慶長十三年(一六〇八)に二九歳で没しました。その後、寺は小督の戒名である「玉田院光誉睿室貞舜尼」にちなんで「玉田院」と呼ばれるようになりました。
当初、墓は玉田院にありましたが、元禄年間に廃寺となり荒れ果てていたのを、仁科家の子孫である仁科資真が正德五年(一七一五)に極楽寺へと改葬しました。
(案内看板より)
⬜︎長田作左衛門墓
長田作左衛門は、はじめ北条氏照の家臣であったといわれています。八王子城落城後は前田利家に従ったと伝えられています。その後作左衛門は、八王子城の東方、横山の地に横山宿をつくり市場を発展させました。これは今日の八王子市の発展の基礎となったといわれています。元和三年(一六一七)に亡くなったと伝えられます。
現在残っている供養塔は、天保年間初期に長田氏の子孫である川邊、金丸及び飯島の各氏が願主となり、嘉永年間に建立されたものと言われています。右手にある塚も、昭和六三年の確認調査の結果、同時期に建設されたものと推測されています。
(案内看板より)
大久保長安と同時代に、互いに競いあって八王子を発展させました。武田方・大久保長安は八幡宿、北条方・長田作左衛門は横山宿に力を注ぎ、現在みるような発展を遂げさせています
⬜︎塩野適斎墓
適斎は千人同心の一人であったが、享和年間(一八〇一〜〇四)幕命により蝦夷地(今の北海道)の経営に従った。のち、原胤敦や植田孟縉(ともに墓地は八王子市内にある)らとともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に従い、また相模風土記稿の編纂にも従事している。これらのほかに「桑都日記」「築井県行記」「日光客中漫筆」「文敲」など多くの著書がある。諱は轍、字は子明、通称を所左衛門、適斎のほか笛水とも号している。弘化四年(一八四七)十一月十六日、七三歳で残した。
(案内看板より)
植田孟縉の墓は宗徳寺にあります。元は八木町にありましたが、昭和の区画整理で滝山町に移転しています。原胤敦の墓は上野町の本立寺にあります。
⬜︎ 歌川国直墓
寛政4年(1792)〜嘉永7年(1854)浮世絵師
江戸の初代歌川豊国に入門し、文化年間から天保年間にかけて美人画・挿絵等で活躍するが、天保13年(1842)の天保の改革により人情本が発禁となり、活躍の場を失う。弘化2年(1845)ころから八王子に住む。
(案内看板より)
写真
①②③④
①玉田院墓
②長田作左衛門墓
③塩野適斎墓
④歌川国直墓
2024年08月15日 いれぶん[⭕️雁雁]
念仏院[横山党館 寺社・史跡]
八王子千人同心歴史探訪
八王子市指定有形文化財
時の鐘
The Bell of Hours
元禄12年(1699)、町の人々に時を知らせようと、八日市宿の名主新野与五右衛門が発願し、千人頭、同心、八王子十五宿の人々の協力で建立されました。
It was built in 1699 to notify town people of hours. The idea was put forward by the famous lord of the Yokaichi-Juku community, NIINO Yogoemon, in cooperation with Sennin Chiefs, Doshin soldiers and members from Hachioji' s 15 towns of inns.
<八王子市上野町 念仏院>
八王子市教育委員会
(写真付き案内看板全文)
2024年08月12日 いれぶん[⭕️雁雁]
八木源左衛門屋敷[横山党館 周辺城郭]
武田家臣の八木源左衛門が、武田家客将である成田友兵衛康成(天目山の戦いで殉死)の一子・秀丸を託され隠れ住んでいた場所で、1990年に秀丸が病死し、源左衛門は出家して福聚寺を同地に開基し、翌1991年に亡くなりました。この寺が宗徳寺の起源になります。宗徳寺は1973年に滝山町に移転しましたが、この地には境内にあったとされる神社数カ所か残り、武田菱紋らしい紋を見せています。
源左衛門屋敷の真南5〜600m程先に松姫が居住した信松庵があり、南東300m程には大久保長安陣屋があります。1582年からこの地に住み続けた源左衛門が松姫には心強かったでしょうか。長安にとっても住み良い環境になっていたと考えられる、千人同心にも重要な地点であっただろうと思われます。
写真は社に武田菱紋を持つ伏見稲荷神社で、八木町東端にある
2023年11月02日 おじゃるまる式部大輔
横山党館
JR八王子駅から、国道20号線方面に歩きました。徒歩10分くらいで、八幡八雲神社に到着。境内は静かで雰囲気も良かったです!
2022年02月23日 ムク胆振守導庵
横山党館
横山党館 2022/2/22
八王子の八幡八雲神社の境内にある横山党開祖・横山義孝を祀る横山神社が館跡付近のようです。
車で行きましたが、神社前は一方通行なので、いちょうホール通りの八幡八雲神社北より入りました。
平日の午後に訪れました。近所の人らしき数組が参拝されており、参拝順が同じになった親子(母娘)に挨拶をしたら、素敵な笑顔とともに返していただけました。心が温かくなれる場所でした。
2021年11月25日 四間飛車左衛門佐とみー
横山党館
2021年11月20日、八王子攻城ミニ縦走その4
滝山城攻略後、バスで八王子駅近くの横山党館に向かいました。横山町1丁目のバス停から商店街を抜けて徒歩7分くらいです。今は八幡八雲神社になっており、七五三祝いの親子連れが何組か来て穏やかな雰囲気でした。
2021年07月30日 最上中務大輔一輝
横山党館
街中の商店街を抜ける野猿街道が表参道扱いか。その脇の小径にはいまも料亭が佇む。
近くの都まんじゅうは八王子の庶民の味。
2021年07月08日 長森原
横山党館
武蔵七党のうち最大の武士団であった横山党の本拠地、横山党館。
今は八幡八雲神社境内に、横山党開祖・横山義孝を祀る横山神社が残るのみで遺構はありません。
御神木の洞の中にひっそり小さな板碑が納められていて、そこだけ中世の面影を偲ばせました。
立地的には、横山党館は中世の主幹道路であった川越道沿いにあり、道の反対北東側には鎌倉時代創建の大義寺もあって、この辺りが中世初期の八王子の祭政の中心地であった事が伺えます。
2021年03月28日 明石家船上
横山党館
八王子市内の住宅地の中に神社はあるが、遺構はない。地名に横山町とついている。
鎌倉時代初期、建暦3年の「和田合戦」では横山党は和田義盛と姻戚関係があり与したが、北条氏に負け、横山荘の所領を取り上げられた。横山党は散り散りになり、全国へ横山氏が広がった。
取り上げられた所領は、大江広元へ授けられ、八幡神社(源氏の氏神)と八雲神社が勧請された。
神域内に、小さく横山神社が残っている。
国道20号線から、神社への入り口にあたる角に、荒井呉服店仮店舗があり、目標となる。
神社は野猿街道に面している。🙈🙊🙉
明治から大正にかけて、この地域は養蚕が盛んで、生糸関係者はよく儲かり、大尽遊びが盛んであった。灯籠は、遊廓が寄進したもの。
2020年08月22日 domdomdom大宰帥
参拝者駐車場[横山党館 駐車場]
駐車場の進入経路は一方通行なので注意する‼️
2019年02月12日 三ツ鱗▲钁湯無冷所
横山党館
八王子まつりの上社の山車を出す、神社です。横山党発祥の地と言う事もあり、八王子市内では「横山」と言う地名が今も多く存在しています。万葉で詠われた防人歌の「多摩の横山~さらさらに」と言う横山は、八王子丘陵を指します。横山党の名前の横山は、この丘陵から来ていると言う説があります。
この横山党の本拠地があった場所は諸説あるが、現在の八幡八雲神社が有力であるとされている。
神社内の案内板に横山氏ゆかりの土地である旨の記載はあるものの、遺構などは特に残っていない。