妙薬寺
妙薬寺([横山党館 寺社・史跡])
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妙薬寺の口コミ情報
2024年10月22日 いれぶん[⭕️雁雁]
横山党横山氏の供養塔(氏照期の物)と武田家臣山本勘助の曽孫である山本張六夫妻と伝えられる墓があります。西側にある墓地内に入って直ぐを塀沿いに南下して、塀からの出入口扉を開けた向こう側にあります。
薬師堂の別当寺として創建されていて、薬師堂の他にも古い御嶽の社や石見土手に似ている石積もあります。こちらは薬師堂裏を南下して鳥居をくぐった向こうです。
三ツ葉葵紋は家光より7石の御朱印状を賜った事によるようです。
[妙薬寺の縁起]
(元横山村)薬師堂
村の東の方にあり、三間四面、御朱印堂領七石を賜へり、別當寺しばしば回禄にあひて、記録なければ詳ならず。
別當妙薬寺。新義真言宗にて、宇津木村龍光寺末、醫王山聖天院と號す、開山のこと詳ならず、本堂六間に四間、本尊大日は立像にして、長三尺許。
横山氏石塔。薬師堂の前にたてり、昔は境内より十四五歩へだてし字木の下屋敷と云所の百姓かまへの内にありしを、百五十年前にここへ移せしと云、高さ五間ばかり、五輪のごとき塔なり、第二層に梵字あり、第一層には四方に文字あれども滅してよむべからず、ただ横山殿の墓とのみつたへて、その名をつたへず、この墓の舊蹟には、土中に石函ありと云ふ、されどそれを動すときは殃ありとて、近くものだになし。
(新編武蔵風土記稿)
[妙薬寺 法累塔縁起]
當山創立は北朝後光巌帝文和四年(一三五五)清遍律師供養師となり薬師堂創草に始まる、續いて後小松帝明徳二年(一三九一)清承法印河内國延命寺より法縁これあり、本尊不動明王共に歓喜天像を相受け來り、山号を医王山、院号を聖天院、寺号を妙薬寺と名付く、下って慶安二年(一六四九)三代将軍家光公より栄理法印御朱印拝領、明鑁法印代(文政、一八〇〇、十一代家斉公)表門建立、明治初年散田村福泉寺を合併開創以来六百二十年
境内に横山将監小野秀綱の供養塔(永禄三年一五六〇)あり室町期作宝篋印塔-都重文-、甲斐武田家臣山本張六夫妻の墓(近江源氏新羅三郎義光の裔にして勘助の曹孫)あり、現住に至りて世二代あたかも昭和五十九年は弘法大師御入定千百五十年、棺納この忌に當り報恩の為め十三層塔を建立す
仏塔は釈迦尊滅后その舎利を八分八塔を作りしに始まり後東洋諸国に行わる又塔建立の功徳は賽の河原の説話、年忌法要に當り卒都婆建立の習わし等周知の如し、以上縁起共に層塔建立の趣旨記して如斯
昭和五十七年十二月
妙薬寺現董末資 秀光識
(石碑全文)
写真説明
①②③④
⑤⑥⑦⑧
① 本堂前右手の石碑・妙薬寺法累塔縁起
②横山氏供養塔
③山本張六夫妻の墓
④薬師堂
⑤本堂
⑥薬師堂奥の鳥居
⑦石見土手に似た石積
⑧供養塔・夫妻墓に至る扉